「天地の造り主なる神への信仰」 詩編8編

 使徒信条「信仰告白」
「我らは天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひとり)り子(ご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座(ざ)したまえり。かしこよりきたりて行ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。我らは聖霊を信ず。聖なる公同(こうどう)の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」
                                                       「聖歌」表紙、讃美歌566番(讃詠)より
 「聖なる公同の教会」とは、どういう驚教会なのか。公同とはどういう意味か。原文はラテン語でsanctam Ecclesiam catholicam 公同(英語)カトリック普遍的な、全般的な(大文字だとカトリック教会)という意味です。
 聖書では教会について「キリストの教会の頭、あなた方はキリストの体の一部である。キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのである。」と言っている。キリストの体が一つであるように、教会は一つです。それが聖なる公同の教会です。これは時や時代を超え、国や人種を越えた普遍的な教会です。わたしたちは目に見える形では紀南教会に属していますが、大きくは普遍的な公同の教会(神の国)に属しているのです。

成立経緯
 教会が2世紀半ばごろから信徒教育やバプテスマ(洗礼)時の契約に際して用いたローマ信条がその原型だと言われている。4世紀初めに定式化されたとする学者もあるが、一般には現在の文面が固定したのは9世紀頃とされている。

 この使徒信条は異端との対決の中で生まれてきた。またこの信条は、イエスが肉体をもって生まれたこと、死んだことを強調している。身体を伴ったイエスの出生、ならびにイエスと信徒の復活に重きを置き、グノーシス主義の影響にある仮現説なと初期の異端に対抗している(ヨハネの手紙一1:1,4:2)。異端はいつの時代も、今も、形を変えてある。
ヨハネの手紙一1:1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について −ヨハネの手紙一4:2あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
 ※われらの立場
「信仰の根源的な面では一致を、見解や意見の相違では自由を、その他の全ての面では愛を」
 信仰の根源的な面・・・主の晩餐とバプテスマ
使徒信条は「信仰の根源的な面」といえるか。これは多くの点で信仰の根源的な面を表している。しかし、これを固定すべきではなく、柔軟性をもって扱い、共に学ぶことは意義深いものだと思う。

 使徒信条が生まれる背景にはいくつかの重要な要素があったわけですが、福音宣教、伝道のために生まれていった。キリスト教を名乗りながら、聖書からはずれた教えや福音とは違うものを福音として語り続ける者たちに対して、聖書は貫く福音はこれである。ということを鮮明にし、「しるし」として高く掲げる必要があったのです。

天地の造り主なる神を信ず
 使徒信条の原文はラテン語で、その最初の第一句は「われ信ず」という語、クレドーという言葉から始まっている。
  「わたしは信じます。天地の造り主、全能の父なる神を信じます」と使徒信条は告白するのですが、そもそも信じるとはどういうことなのか。

 聖書が語る信仰とは、信仰心のことでも、信心のことでもない。信仰心が篤いかどうか、ということと、聖書の語る信仰とは違う。聖書が語る信仰とは、人間に迫ってくる神の愛、真実、恵みを人間が受けとめ、承認することなのです。信仰において大事なこと、中心となっていることは、わたしの信仰心や信心ではなく、わたしに迫ってくる神の愛、神の真実、神の恵み、それこをが大事なのです信じる対象こそが大事ということです。

 このことを詩編8編から見てみましょう。ここにはこの作者に迫ってくる神の愛、神の真実、神の恵みがよく現されている。
 【詩篇8篇】
主よ、わたしたちの主よ  あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます、幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます。
 あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。
  神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
 主よ、わたしたちの主よ  あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。

 知恵も知識もない、弱く貧しい者に、神はご自身を現される。決して、知識を極めた者が神を知り、称えるのではない。誰かに支えられ、守られなければ生きていけないような弱い存在である者によって天に輝く神の威光は褒め称えられる。それらの小さき者を滅ぼそうと立ち向かう者に神は立ちはだかり、神は戦ってくださる。
 天は神のみ業、月も星も神が配置されたもの。その万物の創造者である神がこの小さな罪深き者に目をとめて下さるとは。何故、そのように人間を顧みてくださるのですか。

 この詩篇の作者は何故このような信仰を告白するのことが出来たのでしょうか。人間に迫ってくる神の愛、真実、恵みを彼が受けとめ、承認したからではないでしょうか。それは初めから神のうちに満ちあふれていたものですが、イエス・キリストによって目に見える形で現されました。おとめマリアより生まれ、、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に付けられ、と記されているとおり、主は人間の姿となってわたしたちの所まで降ってきて、満ちあふれる神の愛、真実、恵みを現して下さったのです。それゆえに、天地の創造者である神がこの小さき、罪多いわたしたちを顧みて下さることを承認し、
 「我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。」との信仰告白になるのです。