「メシアの誕生」  ルカによる福音書 2章1〜20節

2:1そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。 

ここには 旧約聖書に預言されていたメシア(=キリスト救い主)の誕生が長い長い時を経て、ついに成就したことが記されている。その預言とは、ユダの地ベツレヘムに、ダビデの子孫に、永遠の王、救い主が生まれる、と言うことでした。ただ一度だけ歴史の中に、人間の姿となってキリストは来られた。何とその誕生したところは家畜小屋であり、寝かされたところは飼い葉桶の中でありました。まさに神は最も暗いところを、冷たく貧しいところを選ばれ、最も小さな姿となって、幼子イエスとして来られたのである。誰が想像したことでしょう。このことにだれが気づいたでしょうか。神様のなさることは不思議です。
 使徒パウロは神の知恵をこう言っています。コリント第一の手紙1:1〜23「世は自分の知恵で神の知恵を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架に付けられたキリストを述べ伝えています。」神は「信じる」ということを最も愚かで、小さい私達に寄り添うことで、連帯することで、信じる心を起こそうとされたのです。それがキリストの家畜小屋での誕生であり、罪を負われるキリストの十字架の姿でありました。

 ルカはこの出来事が空想や作り話ではなく、現実に起こった具体的な出来事であったことを歴史上の人物をあげて明らかにしようとしている。当時最もよく知られ、権力があったのは皇帝アウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝、シーザーの甥オクタビアヌス、シーザーの養子)でした。彼がローマ帝国の皇帝であった時、最初の住民登録をせよとの勅令を出した。この住民登録は歴史上はっきりした記録は残っていないが、皇帝アウグストゥスの在位はBC31−AD14、そしてキリニウス(クレニオ)がシリアの総督であった期間はBC4−AD4であったことは歴史家も記しているところです。
 「宿屋(客間)には彼らの泊まる場所(余地)がなかった。」
@客間はすでに満員だった。A貧しいヨセフとマリアが泊まることのできる安い部屋がなかった。Bあるいは、そんなお産を間近にした妊婦を泊める宿屋はなかった、ともとれる。妊婦のお断り。迷惑だ。
 ああ何と、順調なとき他の人のことを思いやれない、考えられないことでしょう。いや、順調な時だけでなく、人のことなど考える余地すらなくなってしまいます。
 イエス様は言われた。「あなた方は私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸してくれた・・・。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25:31〜)
マタイによる福音書25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。
25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
25:42あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
25:43旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
25:44そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
25:45そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
25:46そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。


 ただキリストの誕生のことは、神から遣わされた天使によって、ベツレヘムの近郊で羊の番をしていた羊飼いだけに知らされた。
2:8さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである
」。2:13するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

天使が近づき、主の栄光があたりを照らしたので、羊飼い達は非常に恐れた、とあります。この「恐れ」はどのような恐れでしょうか。主の栄光が照らす時、それはこの世の光とは質的に違って聖なる光であって、心の中まで照らし出される光であったのでしょうか。その恐れは恐怖というより、畏敬の念、あまりにも神々しい光に、圧倒されて気を失うほどで。茫然自失するような状態でしょうか。天使は言った。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

 「大きな喜び」とてつもなく大きい喜び、と言う意味です。天にでも昇るような喜び、躍り上がるほどの喜び・・・。
 「11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あながたがは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見付けるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」  これが何故それほどまでの喜びをもたらすものなのか。それは救い主である飼い葉桶の乳飲み子が与えてくれる喜びで、死によってでも消えない喜びだからです。ではどのようにして与えられるのか。この布にくるまって飼い葉桶に寝かしている乳飲み子こそ神の御子キリストであると、信じる信仰によって与えられるのです。この信仰はわたしたちは何かをしたから得られるものではなく、神から一方的に恵みとして与えられるものです。そうかといって何もしなくてもいいかと言えば、そうでもありません。信仰は聞くことに始まり、聞くことはキリストの言葉による、とあります。ただキリストの言葉にふれ、良く耳を傾けることで、神が与えて下さるものなのです。

 主よ、わたしたちのむさ苦しい家畜小屋を照らして下さい。どうかキリストによって、わたしたちを大きな喜びで躍り上がらせて下さい。