「母の日の起源」 出エジプト記20章15節
           エフェソ6:2.3  イザヤ46:4

 
「母の日の起源」  アメリカの南北戦争中のこと、同じ国の中で西と東に分かれて戦争をした。あちこちに負傷兵が苦しんでいた。中にはまだ若い青年もいた。ウエストバージニア州のアン・ジャービスさんという女性は、この時こそ母親の出番だとばかり、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方を問わず負傷兵を助けるため、地域の女性を結束させ、多くの兵隊を助けた。
 その後30年くらいしてジャービスさんは亡くなったのですが、この母を子供達は誇りに思っていたのでしょう、彼女の死後2年経った1907年5月12日(106年前の今日)、娘のアンナさんが、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。
 
 アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案した。
 1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた。
 日本では、1915年(大正4年)に教会で行われてから、一般にも少しずつ広まっていき、1937年(昭和12年)に森永製菓が告知をしたことで全国的に広まったといわれる。
 
 この時期になると皇居の堀に引っ越すカルガモの親子が話題になります。母鳥の後ろをヨチヨチ歩くひな鳥が何ともユーモラスでほほえましい光景です。ちなみに父親は巣作りまでで、子供の世話はしません。他の野生の動物の中にもその子供を思う母の愛をよく見ることがあります。一方、人間は幼い子供を虐待する悲しい事件が後を絶たない。何故、そこまで行ってしなうのか。本能的な愛と共に人格的な愛を兼ね備えるはずの人間が動物以下になり下がっている現実はどこが、何が狂っているのだろうか。
 
 万物の創造者なる神は全ての動物を全ての動物を作り、それぞれに子孫を絶やさないように生きる力と知恵を与えられた。特に母には母親特有の子を宿し、愛し、育てる使命を与えられた。
 母の愛は神の愛にもなぞらえられている。
 「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66:13)
 「エルサレム、エルサレム・・・・・雌鳥がになを羽の下に集めるように、わたしはおまえの子らを何度も集めようとした。」(マタイ23:37)

 そして、その母をないがしろにする子を厳しく戒めている。
 「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」(出エジプト記21:17)
 「愚かな者は母を侮る」(箴言15:20)


 十戒の5番目に
 「あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたはあたなの神、主が与えられる土地に長く生きることが出来る。」(出エジプト記20:12,エフェソ6:23)
 これは約束を伴う最初の掟です。その約束とは幸いと長寿です。そのような素晴らしし約束を伴っている教えにもかかわらず、守ってきたとは言えない人類の歴史があります。
※コルバン(マタイ15:1−9)
 「神へのささげ物」(アラム語:コルバン)だと理由づけして、両親のために使うはずのお金や物を他に流用して、両親をないがしろにしていたことをイエス様は厳しく指摘されました。
(マタイ15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」)

 商店街では「母の日セール」で、アピールしているから、ああ、母の日なんだ、何かしなければならないと思うくらいで、それがなければ、自分の生活にかまけて母のことをついつい後回しにしてしまう。

 この世での絆で最も強い絆は「母と子の絆」です。父と子や、夫婦の絆よりも強いものです。
 子連れの熊は怖いといいますが、ある時、映像で見たのですが、子連れの熊がオオカミの群れに囲まれ、オオカミの執拗な攻撃に母熊は子熊を守ろうと必死に立ち向かっていた。自分の身も顧みず、命を張って子供を守った姿に感動した。
 動物の雌には雄にはないそのような本能がある。それは子孫が絶えないようにする神から与えられた本能でしょうか。
 反対に子は親を、母親を大切にする本能があるのかといえば、ない。独り立ちが出来るようになると、親から離れていく。年老いた母熊を大切にする子熊を見たことがない。

 しかし、神は人間だけに「あなたの父と母を敬え」と命じている。それは、本能的なものではなく、自主的な人格的な行為として命じている。
 父や母を敬う心や感謝する気持ちは、神を敬う心や感謝の気持ちに深く関係がある。
 神は万物を造り、全てのものを愛を持って治めておられる。そして、私たち一人一人を例外なく、その行いに寄せるのではなく、存在自体をかけがいのないものとして、命がけで愛して下さっている。父を与え、母を与えて下さり、この世に私たちを生まれ出させてくださったのも神です。たとい、父母が見捨てても、わたしは決して見捨てない、とおっしゃって下さる。私たちは父となり、母となり、子供を与えられ、愛し、育てるわけですが、不十分であり、後悔することも多々ある者です。しかし、神はそんな私たちをどこまでも励まし、支え、信じて、見守り続けて下さる方です。ですから、私たちもその愛に応える者となろうとするのです。
 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」
 「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ書43:4)

※「僕を支えた母の言葉」の朗読
著者は野口嘉則さん、知人の話を、ご本人の了解を得て、若干変えて物語にしたものだをうです。この物語に出てくる母と子は、上記のような神と私たちの関係をよく表している。