『ペトロの否認』 ルカによる福音書22章54〜61節
                           31〜34節

 
 ペトロがイエス様を3度も知らないと否認したとき、鶏が鳴いた。
 イスラエルでは少なくても紀元一世紀には鶏がいた(日本は4-5世紀ごろ伝来)、ということになる。     原文では雄鳥
 明け方、コケッココーと鳴くのは雄鳥、雌鳥は昼間、コーコーと鳴くだけ、雄鳥が鳴く頃・・・真夜中から午前三時頃。
 早朝、鶏の鳴き声を聞くと、私は懐かしい思いになるが、ペトロはどうだったか。今日の箇所は、彼にとって、生涯忘れられない痛恨事であったであろうが、これが新しいペトロの産声、夜明けでもあった。
 私達は自分が弱い、情けない、不信仰な罪深い人間であることを知らされるとき消えて無くなりたい、とさえ思ってしまう。
 ペトロは鶏の鳴き声を聞くたびに、自分の不信仰な罪の姿が鮮やかによみかえったことであろう。そしてそれこそ今の自分の土台になっていることをかみしめ、感謝したことであろう。4つの福音書に、この痛恨時が記されているのは、後に、教会の柱として、聖人のように見られがちなペトロが繰り返し、このことを語って、自分はそんな者ではない、同じ弱さを持つ人間であり、神がともにいて、祈り、支えてくれなければ生きていけない人間であることを告白し続けた証しであろう。そして、身を慎み目を覚ましなさいと、呼びかける神の声を聞いたであろう。

22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った
。(マタイ:ことば使いで分かる)
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
(マタイ:ペトロはノロイの言葉さえ口にしながら、そんな人は知らない、と誓い始めた)
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。

 この痛恨事に先立つことほんの数時間前に、イエス様はペトロにこう言われた。
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 この時、弟子達は互いに比べ合って競争していた。自分はあいつよりましだ。ペトロは、イエス様への信仰、信頼は誰にも負けない、最も忠実な弟子であると自負していた。確かに他の人と比較すればましかもしれない。
 31節は、ヨブの物語を思い起こす。ヨブもまた、自分が正しいと言い張った。しかし、神の前にどうかと言うことが、とことん問われたのである。

 「ふるいにかける」

 麦を収穫したときに、ふるいにかける。ふるいに収穫した麦を入れてゆする。そのように、私達の信仰が揺すぶられる、と言うことか。
 ペトロの信仰がサタンによって揺すぶられて、本当の姿が明らかにされる。ペトロの信仰は死を前にして吹き飛んだ。彼は信仰を捨てた。
 彼は厳しい拷問に会ったわけではなかった。不意打ちを食らったかのごとく、女の一言から、その信仰はもろくも崩されたのである。
 そのペトロが何故、教会の柱となったのか。
 この後、彼はこの重大な失敗に懲りて二度と罪を犯すまいとして、それを実行し、罪の償いをしたからであろうか。立派な行いをし、償いをしたとはどこにも書いていない。

 イエス様の祈り
 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
 しかし、この祈りの後で、ペトロはイエスを否認した。サタンに負けた。そこから、どのようにして、ペトロが立ち直ったのか分からないが、ペトロの信仰は無くならなかった。
 それはペトロが何かをしたからではなく、、またペトロが真実であったからでもなく、不信仰、不真実にもかかわらず、イエス様の祈り、真実が変わらなかったからであった。

 立ち直る
 「あなたは立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
 立ち直る、とは、よろけ倒れていた者が元に戻る、失われた自分をもう一度取り戻すということである。この時ペトロは「みんながつまずいても、自分はつまづかない」と言ったペトロとは違った。

 主は振り向いて、ペトロを見つめられた
 主は不リむいてペトロを見られた。ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
 讃美歌243番「ああ、主のひとみ、まなざしよ」という歌がある。多くの人に愛され、歌われてきた讃美歌だ。たしかに、この歌を歌うとき、ペトロや富める青年、トマスに重ね合わせて、自分を見つめるイエス様の愛と憐れみに満ちたまなざしを感じるのではないか。彼らは私たちの姿でもある。

 よくぞペトロさん、失敗を隠さず、語り続けてくれた、と言いたい。これこそ、立ち直った者が、兄弟を、仲間を力づけることである。
 イエス様の祈りとまなざしは昨日も、今日も変わりがなく注がれている。

讃美歌243番