「神は聞かれる」 サムエル記1章1〜20節(P428)

 サムエルは紀元前11世紀末のイスラエルの預言者です。今から約3千年前の人です。サムエルの母となるハンナには長く子がなかった。そのことでハンナは深く苦悩し、神に涙ながら男の子を祈り求めた。その母の祈りの結果、与えられた子がサムエルであった。
1:2 エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。
 エルカナには「2人の妻があった。一夫多妻ということです。当時、部族間の争いが絶えなかった時代、此の地方でも圧倒的に成人男子が少なかったという状況であった。そこでそのような社会では必要に迫られて子孫を残すためにということでとった制度であった。しかし、これも人間の都合であった。神はアダムとエバを結ばれた時から、2人は一体となる、と言われ、一夫一婦制を定められた。しかし、人類に罪が入り、神の定めより、人間の便宜が優先される社会が作られ、一夫多妻がうまれた。

1:3 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。
1:4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、
1:5 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。

 エルカナは信仰深い人で毎年一回、家族みんなでシロに上がって万軍の主を礼拝した。国中が堕落していた。そんな中で、3節「エルカナは家族と毎年シロに上がり、晩軍の主に礼拝し、いけにえを捧げていた」とありますから、彼は信仰深い人であった、律法に忠実な人であったといえる。律法には礼拝についてこう記されています。申命記12章(P300)
 申命記12:6、7「焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き、
12:7 あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである。」
@全焼の生け贄(罪祭)・・・・・創造主なる神をあがめるため、
A伴食の生け贄(酬恩祭、和解の捧げもの)・・・・・命も全ての産物も与えて下さる神の恵みへの感謝のため、
Bあがないの生け贄(罪祭)・・・・・知って犯す罪、知らずに犯す罪、その罪への贖いのため
 ※主の祈り(神をあがめ、糧を感謝し、罪の赦し)

1:6 彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。
1:7 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。
1:8 夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」
1:9 さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。

 このことはアブラハムの妻サラと女奴隷ハガルにおいても似たようなことがあった。ハンナは何年も、毎年のようにペニナのことで苦しんだ。そしてついにハンナが激しい苦悩の中から立ち上がった。彼女は、その苦悩を主の前に、訴えたのです。
1:10 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。
1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

 ハンナは主の前に出て、悩み嘆いて、激しく泣いた。今まで自分一人の内に閉じこめていた辛い辛い胸の内を洗いざらいさらけ出し、主の前にとことん祈ったのです。 「その子のあたまにかみそりを当てません。」これはナジル人の誓い(誓願)を言っています。「ナジル人」とは民数記6:1〜(P220 6:1 主はモーセに仰せになった。
6:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、
6:3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。
6:4 ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。
6:5 ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。
6:6 主に献身している期間中、死体に近づいてはならない。
6:7 父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない。神に献身したしるしがその髪にあるからである。8〜・・・・・・・・)


1:12 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、
1:14 彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」
1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
1:16 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、
1:17 「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
1:18 ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。

 ハンナは全てを主にうちあけたのです。祭司エリは「安心して帰りなさい。主はあなたの願いをかなえて下さるように」と言った。
 ハンナは神にも祭司にも自分の胸の内を告げたことで今まで胸につかえていたものが取れたように、それまの悲しみに満ちた暗い表情とは違って、晴れ晴れとしていた。そのことは全てを神に知っていただいた、お任せしたという安心感から来ていたのでしょうか。
1:19 一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、
1:20 ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。


 私たちはどのようなときに神のことを考え、神に祈るだろうか。
1.教会に来るとき。
 それが習慣であっても義務的であっても、エルカナが毎年シロに上がっていったように毎週、礼拝に来る、それは立派な信仰です。私たちは動物を捧げる必要はあしません。既に神の小羊として完全なキリストの血の犠牲が払われているからです。私たちに要求される捧げものは悔いた砕けた魂です。ここで共に神を思い、共に「天にまします我らの父よ」と祈る。
2.苦難の時
 ハンナの苦しみはしばらくは夫の慰めで何とか耐え、自分の胸の内にしまっていられた。しかし、どうにも耐えることが出来なくなったとき、彼女は立ち上がって主の御前に出て、神に顔を向けて叫び、祈った。
 
 私たちは「祈る」とき、何を祈ったらよいのか、どう祈ったらよいのか、とまどう。また、神様の前に自分のような不信仰なものが話しても、祈っても聞いてもらえない自分は神に祈るにあたいしない者ではないだろうか、と思う事もある。

 ※マルチン・ルター「祈れないキリスト者を慰める覚書」より
 正しい祈りは地上で最も高尚な、最も困難なわざであり、信仰の最高の礼拝であり、また信仰の最高の鍛錬であることをキリスト者は知っている。・・・・肉が弱いときにはサタンは最高の策略を巡らして、又全力を尽くして正しい祈りを妨害する。そのためにサタンは休むことも眠ることもしない。警戒せよ、警戒せよ、と私は言う。無限に高い尊厳なる神がわたしの祈りに耳を傾けたもうほど、わたしにその価値がないと、あなたが思うとき、あなたは容易に祈ることを止めてはならない。あなたは自分で次のように言い、あるいは考えよ。
@わたしの造り主なる神は、母の体内にて造られたわたしを無から造りたもうた、わたしはそれに価する。
A神はその生みたもう御子の死と聖なる血によって、わたしを救いたもうた、わたしはそれに価する。
B聖霊は神の子キリストについてわたしを教え、福音に対する快感と愛をわたしの心の中に与えたもうた、わたしはそれに価するものとして尊ばれている。
C神はわたしに永遠の不興(不機嫌なこと)にもかかわらず、これらの箇条の一つにも疑わないこと、あるいは神の恵みと甘き父の心とを疑われないことを厳かに命じたもうた、わたしはそれに価するものとして尊ばれている。

 それゆえに主よ、わたしはあなたのわざを想起し、あなたの御子のわざを考えよう!
 あなたの関心事を主に投げかけよ。そうすれば主はあなたを配慮して下さるであろう。
「すべて主を待ち望む者よ、雄々しかれ、なんじら心を堅うせよ」(詩編31:24)