『キリストの栄光ある体へ』 フィリピの信徒への手紙3章21節
 
 「弔いの家にいくのは酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わるがある。命あるものよ、心せよ」(コヘレトの言葉7:2)

1.限りある人生(命)
 赤ちゃんの肌はすべすべで、弾力があって、まるでつきたてのお餅のようです。これが、20歳を超える頃から、少しづつ衰え始め、、30歳過ぎるよ殆どの人が衰えを自覚するようになる。年齢と共にその速度は確実に増していく。表に出ている肌やシミやたるみだけでなく、見えない内蔵のあちこちの臓器も衰えてきている。それはこの世にいる時間に限りがあるということを示している。
詩編90編3節「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」
 「あなたは人を塵に返し」とあるが、人を地の塵から造られ、その鼻に命の息、霊を吹き込まれた神が、再び人を塵に返し、また、「人の子よ、帰れ」と仰せになって、その人の霊が、神のものに帰ってくるように、神が呼ばれるからです。
 また、詩編の90編12節にはこのような言葉も記されている。
 「生涯の日を正しく教えるように教えて下さい。」
 自分の残されている寿命があとどれくらいあるのか、正しく教えるとは後何年、何ヶ月、何日、何時間、何分、何秒あるのかを教えるということでしょうか。
 この言葉の前に、詩編90:5.6.10「人は草や花のようだ。朝に生えて出て、夕べにはかれる。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年、瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と、人の生涯の短さ、はかなさをうたっている、と言うことから考えると、生涯の日を正しく数えることを教えて下さいとは、人の命は神様に与えられて、その長さはただ神様だけが御存知であること、そしてそれは草や花のように、短く、はかなく過ぎ去るものであることを忘れないようにさせて下さい、という意味ではなかろうか。一言で言えば「死を忘れるな。」ということです。

2.かけがえのない大切な命
 私たちの命は草や花、そして霧のようにはかなく、もろいものであるが、神様はその私たちの命をとても重く、大切なものと考えておられる。
 「何を食べようか何を飲もうかと言って悩むな。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことを御存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33.34)
 明日のことを考え悩んで、今日を疎かにするな。思い煩い、迷う時にはまず、神の国と神の義を求めよ。神様にお任せして、「天にますますわれらの父よ。御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にっも為させたまえ(神の義)・・・・・・。」と祈ろう。そうすれば神は全ての必要を御存じであるから、全てを与えて下さる。

3.死に打ち勝つ命
 「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げられた言葉なのです。」(ペトロの手紙一1:24.25)
 確かに人の命は草や花のようにはかないものである。しかし、はかなくない、永遠の朽ちることがない命がある。其れは主の言葉、福音として私たちに告げられた言葉である。その種の言葉とは、ペトロ1:18.19.23の言葉です。
1:18.19「あなた方が救われたのは金や銀のような朽ち果てるものによらず、キズや汚れのない子羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
1:23「あなた方は朽ちる種ではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わることのない生きた言(キリスト)によって新たに生まれたのである。」
 キリストによって、キリストの血によって、新しい命、朽ちることのないキリストの復活の命を頂いたのです。

 一人の犯罪人がイエス様に言った「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出して下さい。」するとイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた。(ルカによる福音書23:39-43)
 イエス様は彼に、あなたは今日わたしと一緒楽園にいる、とはっきりとおっしゃいました。たとえ、体はボロボロになって死んでも、イエスを信じてすがるな者をイエス様は御自分と同じ所に連れて行って下さることを約束している。また、同じ所だけでなくイエス様と同じ復活の体(栄光在る体)に変えて下さるのです。

 「キリストは、万物を支配下に置くことさえで来る力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光在る体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ信徒への手紙3:21)
 キリストは万物を創造し、支配下に置く無限の力によって、つまり、全能の御手を持って、またその真実と愛を持って、約束土尾英、この卑しいからだ、罪の体を、御自分と同じ栄光在る体に変えて下さるのである。だから、病気で、怪我で、年老いて、体がヨレヨレであっても、イエス様。わたしを思い出して下さい。憐れんで下さい。と信じすがる者にイエス様は必ず、輝かしい栄光の体に変えて下さると約束しているのです。
 これはどういう意味ですか。私たちは、心で火葬され、灰となって、ハイこれで終わりではないということです。私たちは直ちにキリストの栄光の体に蘇るのです。永遠の御国へと招き入れられるのです。
 昔の信仰者達はこのことを次のような問答にまとめています。

 問い 「身体のよみがえり」は、あなたにとのような慰めを与えますか。
 答え 「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、ということだけでなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。」(ハイデルベルグ信仰問答57)

 コリントの信徒への手紙二4:16-18
 だから、わたしたちは落胆しません。わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。