「イエスの復活の事実と真実」 ヨハネによる福音書20章19〜23〜節

 「メメント・モリ」死を忘れるなということわざがある。古代ローマでは、メメントを「将軍が凱旋のパレードを行った際に使われた」と伝えられている。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。使用人は、「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
 ところが、私たちは死を忌み嫌う。口に出すことさえしない。だから、というのか、死を自分のこととして考えることをしなかったり、一人で悶々と悩んでしまったりする。どこか、死を恐ろしいものと考えたり、死んだらどなるのだろうか、なにもかも終わりだ、と暗い気持ちになってしまう。
 しかし、イエス・キリストはこう言われた。「わたしは復活であり、命である、わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰でも決して死なない。」死は終わりではないこと、復活の命に生かされる道があることをはっきり言っている。

 さて、今日はイースター、キリストの復活記念日だ。ヨハネによる福音書から、イエス・キリストが復活され、その姿を弟子たちに現された当時の出来事に思いをはせ、イエスの復活の事実と真実について見ていきた。
 今からおよそ1980年前、紀元30年頃ローマ帝国隆盛のパレスチナの地、ユダヤの国の首都エルサレムの町は過ぎ越の祭りで賑わっていた。
 ここはエルサレム市内のとある家の一室。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 弟子たちが、イエスの十字架上の死に遭遇して、どれほど打ちのめされ、混乱していたか。今まで、すべてをかけてきた人があまりにもあっけなく、無惨な死を遂げられた。弟子たちはどんな時にも主エイスに従っていこうと思っていたのに、思いとは裏腹に、主を見捨てて逃げてしまった。失意の中、どこをどううろついていたかわからない、気がついてみると再びかつての部屋に帰って、仲間と肩を寄せ合って震えていた。路頭に迷うというか、めまぐるしい激動の3日間、夢であって欲しい、夢なら早くさましてほしい、つらい、暗黒の絶望の時だった。
 今にも、イエスさまをとらえ、十字架に付けた指導者達の遣わす、官憲の手が伸びて、この家を見付け、墓から盗んだイエスの遺体を出せと、扉を叩くのではないかとビクビクし、恐怖に恐れおののいていたのであろう。

そこへ、イエスが来て真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 ところが、官憲のけたたましく扉を叩く音もなく、まるで風のように一人の人が薄暗い部屋の真ん中に立ち、一声「シャローム」と言った。
 シャロームは挨拶であるが、もともと実質のこもった言葉である。つまり、神からの真の平和があなたに、もたらされますように、という祈りの言葉だ。イエスさまが言われたシャロームは、まさに掛け値なしの実質のこもった言葉であった。イエスさまの命の重みがこもった言葉でした。イエスさまの言葉には命がかかっていた。イエス・キリストの十字架の死は私たちに真の平和をもたらす神の業であったからだ。決して、表面的な儀礼的な挨拶だけのものではなかった。あなたに平和が与えられるように私は命を捧げた!これは今も、私たちに語りかけられている言葉でもあるのだ。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 弟子達は無惨にも十字架に付けられた者が復活するなど信じられなかった。弟子達はその傷跡を見て、確かに主はよみがえられたことを実感した。
 弟子達は確かに主の復活されたことを見て、信じた。この時とそのときから昇天されるまでの40日間、復活したイエスさまとしばしば出会った。それは後の復活の事実の証明に大きく貢献した。最初は十二人の弟子達に、その後五百人以上の兄弟達に同時に現れた。(コリント一15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。)

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 神の国を伝えようとする弟子達に必要なことは、死にも揺るがない平和、死に打ち勝つ命であった。そして、神から遣わされる使命感であった。

20:22 そう言ってから、彼らに息きを吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪も、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 さらに、神(イエス)がともにいてくださるという約束の印、証印である聖霊が必要であった。その上に、罪を赦す権威である。神だけの権威である罪を赦す権威を弟子達に委ねられたのである。
 この時から50日目ペンテコステ、五旬節の日に弟子達全員の上に聖霊が下ったのです。そのときから弟子達は生まれ変わったように、大胆にイエス・キリストの十字架と復活の福音、キリストによる罪の赦しを宣べ伝え始めたのである。

 イエスの復活の事実と真実
 弟子達によって証明されてきた。もしエイスが復活されていなかったら、彼らは復活が嘘と知りながら、伝えてきたことになる。そんな嘘は決して長続きしません。必ず、化けの皮がはがれる。ところが、二千年も伝え続けられていることが嘘ではなかったことの揺るがぬ証拠だ。
 また、「エイスが処刑された後すぐに、弟子達は途方にくれて縮こまった集団から、生きているイエスと神の国について伝える人々へと奮い立たされ、命の危険を覚悟して伝道し、最終的にローマ皇帝を変えた。」
 その背後に、イエスの復活の事実と真実が合った。神から遣わされ、復活の主(聖霊)が共におられたこと、罪の赦しの権威が与えられたことがあったのである。現代においてもその事実と真実は変わることがない。