「十字架・イエスの祈り」 ルカによる福音書23章31〜35節

23:31〜35 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで、人々はイエスを十字架に付けた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架に付けた。[そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼等をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。]」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。[議員達も、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 来週はイースター、それに先立つ今週は受難週です。イエスさまが十字架を目前にした苦難の時です。わたしたちは平和な中で、余程のことがない限り、これを身近なものとして、また緊迫感を持っては捕らえにくいのではないでしょうか。それでも、少しでもイエスさまの苦難に思いをはせ、わたしたちに対する神さまの愛と赦しの真実さを覚えたい。
 十字架の苦しみはわたしたちには想像を絶するものです。世界に多くの死刑の方法がありますが、十字架刑ほどむごいものはありませんん。それは激しい苦しみが長い間続く刑罰だからです。
 福音書の記者ルカは全く淡々と、実にシンプルにイエスさまの十字架を記しています。ルカの目的は十字架の苦しみ、悲惨さを描くことではなく、イエスさまがそこでどのような態度を取られたかです。
 まず、イエスさまの口から出てきた言葉は、天の父に祈られた祈りの言葉でした。
@究極の赦しの祈り
 それは、自分を十字架に付けた人々を赦してください、という祈りです。彼等の罪を叫び、呪う祈りではなく、どうか彼等を赦して下さいという執り成しの祈りだったのです。
 これは人間の口から出る言葉でありません。自然の人間からは何の悪いこともしていないのに、身に覚えのない罪をきせられ、悪意を持って葬り去ろうとする者に対して、赦しの言葉は出てきません。まして、神への執り成しの祈りなど決して出来るものではありません。
 世界は復讐、報復で満ちています。「倍返しのドラマ」で溜飲を下げている姿からも分かります。自分に、家族にされた仕打ちを何処かで仕返しをしてやりたい、とずっと願い、忘れることが出来ないのです。
 所詮わたしたちはいくら、復讐するな、赦せと言われても、それは絵に描いた餅で、そんなことはきれい事に過ぎない、現実はそんな甘くないと思っています。

 イエスさまは参上の説教で、敵を赦し、迫害する者のために祈れと言われた。又、私が道であり、真理であり、命である、私を通してでなければ父のみもとに行くことは出来ない、私の愛にとどまりなさい、とも言われた。そうして、言うだけでなく、十字架の上で、それを実践されました。「父よ、彼等をお許し下さい、自分が何をしているのか分からないのです。」この世の終わりに臨んで発した言葉です。
 何度も言いいますが、わたちには人を赦すなど、そんな力と愛はありません。しかし、それをイエスさまが共におられるなら可能にして下さるのです。復讐、憎しみという罪の連鎖を断ち切り、真の平和を実践する唯一の道です。それはイエス・キリストを信じる信仰による道です。わたしたちの力や努力によるものでは決してありません。罪の赦しは、イエスさまの祈りと十字架の贖いによるのです。ただ、それを信じる者に与えられる神の恵みの賜物です。イエスさまは、私のすべての罪を赦して下さっていること、そして私に罪を犯す者の罪をも赦して下さっていることを信じ、互いに赦し合いましょう。

A父よ、彼等をお許し下さい。     「彼等」とはだれか?
 第一に、直接イエスさまの手足に釘を打ち付け、十字架に付けたローマの兵隊たちです。彼等は十字架の下で、イエスさまの服をくじ引きをして分け合っていた。職務で知らずにしたとはいえ、神の御子を十字架に付けたことは、彼等の心に深い罪の呵責を残した。(アメリカ兵PTSD)イエスさまが赦しを祈られた「彼等」とはそのような兵隊たちでした。
 次に民衆です。彼等は一週間前に、イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入場したときは「ホサナ」と叫んで、大歓迎したのです。その彼等が指導者たちに先導されたとはいえ、十字架に付けろ、十字架に付けろ、叫んだのです。人間の心は変わるものです。イエスさまが赦しを祈られた「彼等」とはそのような民衆でした。
 次に、彼等とは大祭司を初め民の指導者たちです。直接自分の手で十字架に付けたのではないが、彼等こそ、イエスさまを十字架に付けた張本人です。自分たちの身を守るために、イエスさまを十字架に付けたのです。

 何とイエスさまは彼等のためにもその罪の赦しを祈られたのです。なぜなら、神にとってすべての人(彼等)が神の子供であり、、愛する神の子羊なのです。迷い出た者が帰ってくることを両手を広げて待っているのです。

B自分が何をしているのか知らないのです。
 いじめている人は、いじめられている人がどれほど辛い思いをして苦しんでいるか、知らずにしている。知らずにしていたなどは、決して言い訳にならない。しかし、多くの人はその時は気づかないのです。後になってことの重大さに気づき、後悔するのです。けれども、もう遅いのです。手遅れなのです。取り返しのつかないことをしたのです。
 しかし、神の前には遅い、手遅れはありません。いつでも気づいて、悔い改める者を喜んで迎え入れて下さるのです。なぜなら、イエスさまが十字架の上でその赦しを祈って下さったからです。

 彼等とはわたしです。この祈りは私のための祈りでもありました。
「父よ、上山をお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
 当時、私は自分が罪深い赦されなければならない人間だとは思っていませんでした。ただ、自分が何をしているのか分からないでいるのです、と言う言葉は自分を捜し求め、さまよっていた私には確かにそうだと思いました。やがて、わたしの苦悩は神様から離れ、神に背を向けている結果だと気づきました。そして、このイエスさまの祈りを聞いて、このように祈られるかたこそ真実の神だ、この方を信じ、繋がっていこうと決心したのです。
 この受難週の一週間、主のお苦しみと愛をより多く共有し、イースター復活の記念の日を迎えましょう。