「母を思いやる」 ヨハネによる福音書19章25〜27節

 二階にいたら、通りを歩いていたおばあちゃんたちの話し声が聞こえてきた。「母を思いやる、というても母がおらんのだから、お墓にお参りするしかないなー」看板の説教題を見たのでしょう。
 どんなにおばあちゃんやおじいちゃんになっても母はいつまでも、懐かしく、恋しいものです。良きにつけ悪しきにつけ思い出されます。
「親孝行したいときには親はなし」ということわざがあります。生きている時は当たり前のごとく思い、気づかないものですが、死んだ後、こうしてやればよかった、ああしてやればよかったと、後悔するものです。

【母の日の由来】
 アメリカでは南北戦争(1861〜1865年)があった。この戦争で多くの若者が戦死した。多くの母が悲しみに浸った。戦争終結後の1870年、(女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウス)が夫や子供を戦場に送るのを、今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。ハウスの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵を看病し、その衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。
 ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。

 聖書から母を大切にする言葉を見てみると、まず「十戒」に「あなたの父と母を敬え。そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることが出来る。」(出エジプト記20:12)と定められている。
 これは命令形で記されている。これに続く、殺すな、姦淫するな、盗むなも同じ命令形である。しかし、敬えと命じられて、敬えるものではない。

@母が子供のことを思いやる、というのは本能的要素が多い。
母はお腹に胎児を10ヶ月宿し、生まれると母乳を与え、育てる、そこに深い絆が生まれる。
A一方、子が母を敬い思いやる、というのは本能的要素というより、意志的、倫理的要素がおおいのではないかと思う。
 つまり、知らないうちにそうしているのではなく、自分の意志で、自覚してそうする。だから、母を敬うということは、母との人格的関係が確立されないと出来ないことでもある。これは自然で、本能的ではない。又、命じられて出来るものでもない。

 「十戒」には最初に、私のほかに神があってはならない、とある。つまり、親との関係に先立って、神との関係が優先されている。神との関係がしっかりと確立されて初めて、親との関係も確立されることを言っている。
 私たちが神との関係を確立する道はキリストにおいてほかにはない。もともと、私たちと神様との関係が罪において遮断されているからである。
  
 ※儒教(孔子の教え、BC5〜6c)では親には絶対服従が教えられた。 古代の中国では、祖先崇拝の観念のもとに、血族が同居連帯し家計を共にする家父長制家族が社会の構成単位をなし、この家族の構成員たちは、親に絶対服従すること、祖先の祭祀に奉仕することを孝としてとして義務づけられた。このように孔子は、親を敬い、親の心を安んじ、礼に従って奉養祭祀すべきことを説いた・

イエス様の母マリアへの思いやり
9:25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた
19:26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 
19:27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子は母を自分の家に引き取った。
19:28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられてのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

 ここはともするとイエス様が何か冷静に、何の苦痛もないかのようにサラッと言われた、と錯覚してしまいやすいところです。状況としてはサラッといえるような状況ではなかった。
 (28〜30節を読む)しかし、実際はイエス様が十字架において最も苦しい、最後の時を迎えられた。いわばいまわの言葉です。28節に「渇く」あるように体から水分が奪われ、喉や口はからからに渇き、舌は上あごに引っ付き、息も絶え絶えの中から絞り出すように、最後の力を振り絞って語られた言葉です。それが母を思いやる言葉だったのです。自分が去っていく後、悲しみに沈むだろう母マリアへの深い思いやりでした。28〜30この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸(ス)いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 苦悩の極限における、母への思いやりでした。

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」
 このイエス様の母マリアへの言葉が他人行儀に聞こえてしまいます。苦しみの絶頂の言葉としては、何かふさわしくないように思える言葉です。イエス様はたとえ最も身近な家族であろうとその間に神を介在させている。神なしで母も家族も、ひては隣人も真に敬うことも、愛することも出来ないことを示している。

 イエス様は母マリアとの関係において常に距離を置いていた。神を介在させていた。
@ルカ2:48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」
Aマルコ3:33〜35イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
Bヨハネ2:3〜ぶどう酒がなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました。」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてくださ。」と言った。・・・・・・・・・・
これらは冷たい言葉に聞こえるが、イエス様は神を最も大切な方として間に介在させている。

 母の日、母への思いやり、心からの感謝と敬う心は神からくることを心にとめましょう。