『心を合わせて祈る』 使徒言行録4章23〜31節

 先週はペトロとヨハネが足の不自由な男をイエスの名によって癒し、そのイエスの復活を宣べ伝えたところ、神殿当局から逮捕され、議会の真ん中にたたされ尋問を受けた。しかし、二人は堂々と臆することなく、イエスによる以外に救いうる名はどこにも無いと、大胆に宣言した。これからはイエスの名によって話してはならないときつく脅され、釈放された。
 教会はユダヤの指導者たちに、これ以上イエスの名によって語るなと厳命され、教会が教会でなくなるような危機的状況に陥ったとき、教会は神が預言されていたことの成就だと、確信して一つになって祈った。すると集まっていた場所が揺れ動き、皆は聖霊に満たされ大胆に神の言葉を語り出した。

04:23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。
04:24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。
 ペトロとヨハネは仲間の所に行き、逮捕された時からのことを何もかも話した。これを聞いた人達は心を一つにして神に向かって祈った。心を一つにし、とは私たちが主の祈りを祈るように、同じ言葉で皆が祈ったのだろうか。しかし、当時はこういった定まったものはなかった。指導的な一人が声を上げて祈り、その後をなぞるようにして皆がアーメンと言いながら同じ言葉で祈ったのではないだろうか。
 逮捕、監禁、そして議会で尋問、大胆な答弁、そして脅し、それらの全ての報告をペトロやヨハネから聞いた仲間の者たち教会全体は、これが旧約聖書詩編第二編にダビデの口を通して預言されているとおりのことが起こっている、と確信した。皆が皆詩編の言葉を思い起こしたとは思えないが、多くの人がそう確信し、廻りの仲間もそれを理解したのだからすごいことだ。使徒たちから日々聖書を学んでいた証拠である。

「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。
04:25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
 私たちの使徒ペトロとヨハネは捕まり殺されるかもしれないと心配していましたが、二人の報告を受け、今はっきりと分かりました。今憩っていることは全て天地の主であるあなたの御手の中にあり、全てはあなたが聖霊により詩編二編に預言されていたとおりのことであります。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。
04:26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』
cf:詩編二編からの引用、原文は
2:1何故、国々は騒ぎ立ち、人々は、むなしく声を上げるのか。
2:2なにゆえ、地上の主は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注さがれた方に逆らうのか。

 この詩編は神に立てられた王の讃美の歌であるが、メシア預言の歌とも言われている。何故、なにゆえに、とあるように「主が油を注がれた方=神が選び神の霊と力を与えられた人」に国々は、人々は、地上の王たちは、支配者たちには、世はこそって何故半旗を翻すのか。
 続く 2:3 には「我らは枷をはずし、綱を切って投げ捨てよう。」とあるように、なぜなら、神が立てた方の支配を受けたくない。枷や縄に縛られたくない
神とその掟に従うより、自分の自由に生きたい。
 その背後には、彼らは神に反する生き方をしていた。その罪を指摘されたくない、だから、主が油を注いだ方がいたら邪魔だ。彼に逆らおう、彼を亡き者にしよう、とした。ペトロとヨハネの報告を聞いた仲間の者たちはこの詩編を思い、まさにこの御言葉が今現実のこととなっている、とはっきりとわかったのです。
04:27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 04:28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。
 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)

04:29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
04:30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
04:31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 ユダヤ当局者たちがペトロとヨハネにしたことは、yほいことへのねたみ、自分を守るための恐ろしい脅しでした。これは私たちに共通する人間の心理、罪の性質でもある。
 ※ママ友、いじめを回避する3箇条
@明るく接する/悪口を言わない/自慢しない
A目立たないようにする
キラキラ輝くまぶしさに惹かれる人もいれば、その輝きから目を背け、いじめの対象にする人も、それは自分よりも魅力を感じる存在に対しての、卑しさと悲しさの入り交じった防衛本能と言えるでしょう。そんな視線を浴びずに穏やかに過ごすには、“悪目立ちする”ことを避けるべき。
Bおかしな?と思ったら距離を置く


 ペトロやヨハネはきらきら光る、神々しい存在でした。ユダヤ当局者たちは彼らを迫害し、亡き者にしようとしました。
 それに対して、初代教会の人々がとったのは、迫害者たいtに目立たないようにすることか、距離を置くとかと言うことではなく、彼らを怖がることなく大胆に御言葉、福音を語ることが出来るように、と祈った。彼らは福音を自分たちだけのものとしてとどめておくことが出来なかった。イエス様はこの小さな、罪多き者のためにも十字架につき、命を投げ出して救って下さった。罪の許しと新たな命を恵みによって、イエスの名を信じる信仰によって与えて下さった。新しく生きる者として下さった。
 私たちは苗代の苗、福音の苗として、この世に移植されている。それは自分の力や、信心によってでではなく、天と地と海と、その中の全てのものを造られた主を信じる信仰によって、またイエスの名を信じる信仰によって植えられ、生かされている。
 全ての出来事は天と地と海とその中の全てのものを造られた神の御手の中で行われる。何一つ神の御手の外で行われていることはない。迫害も、病気も、災害も、失敗も、成功も、生も死も、神の御手と御心の中にあり、全ての人の救いのためである。