「人の目と神の目」 マタイによる福音書61節

1.人の目
 @悪の抑止力

 「コーヒー、一杯50円です」
 ある会社の休憩室に、張り紙にそう書かれてはいる。しかし、箱にお金を入れなくてもコーヒーメーカーからは自由にコーヒーを飲むことが出来る。
 さて、あなたは50円を払うかどうか?
 イギリスのある実験によれば、この状況下でお金を払う人は「10%(10人に1人)にも満たない」という結果が出た。
 ところが、「一杯50円」と書かれた紙に「ある写真」を添えたところ、お金を払った人の数は実に7倍の「70%(10人に7人)」にまで急上昇したという。
 さて、その「ある写真」とは?
   
それは、「人の目」である。「見られている」と思うことで、多くの人がお金を支払うようになったのである。
 日本人ならどうだろうか。
 ある中国人の若い女性が日本の「無人野菜販売所」を見てビックリしたそうである。
 「学校で、中国の古代詩人・陶淵明の「桃花源記」を勉強したことあります。その世界では、夜寝る時もドアの鍵をしめません。(「桃源郷」、理想の安楽世界を描いている)それは現実にはありえない事と思っていましたが、日本に来て以来、日本はその世界にすごく近いと思っています。日本の田舎には無人野菜販売所があります。誰もいないのに、みなさん自主的にお金を入れています。本当に日本人のマナーにビックリ!
 そんな日本でも痛ましい多くの犯罪が起きています。誰も見ていない暗闇での犯罪は後を絶ちません。誰も見ていないと思っていても目撃者や防犯カメラでその犯行が明らかになっています。確かに、防犯カメラや暗闇を照らす街灯は「人の目」を意識する人間の性格から、悪の抑止力につながっている。しかし、それでは根本的な解決にはならないことは誰もが分かっています。

 A人の評価・・・能力、行いによって見る
 イエス様は弟子たちに、こういった。
 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」                                                                  (マタイによる福音書6章1節) 人の目=人の評価、と言ってもいい。
 人の目を気にするとは、人の評価を気にすることである。これは程度こそ異なるが、多かれ少なかれ誰もが持っているものである。
 ただ、人の評価は千差万別です。人は一面しか見えない。あるいは表面的と言ってもいい。本質が見えていないことが多い。人や子供の能力、行い、点数による評価がだからだ。だから、そういう人の評価をあまりに気にすると、律法学者やファリサイ派の人々のように、自分をよく見られるようにと作為的、意図的に何事でもするようになる。大切なことは人の目、人の評価ではなく、誰も見ていなくてもちゃんと評価して下さる神の目、神の評価である、とイエス様は言われるのです。

 2.神の目
 @悪の抑止力、裁き

 (イ)「お天道様が見ているぞ」
 (ロ)中国のことわざ「天網恢々(テンンモウカイカイ)、疎(ソ)にして漏らさず」 
 天から悪人を捕らえるために張りめぐらせた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある。
 (ハ)「プロビデンスの目」(英:Eye of Providence摂理)
 神の全能の目を意味する。栄光や、三位一体(父・御子・聖霊)の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられる。中世からルネサンスにかけて三位一体の象徴として下のデザインが用いられた。現在でもアメリカ合衆国ドルをはじめとする通過のデザインで用いられている。いずれにしろ、お金を盗んだり、悪いことに使ったりすると、神の目が見ているぞ!という警告を表しているしるしでもあろう。
   

 A神の評価・・・愛と憐れみ、赦しによって見る
 神は人を見られ、深く憐れまれた。

詩編08:04あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
08:05そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。

 月も星も作られた万物の創造者である神が、砂粒のような小さな、愚かな人間に深く目をとめて、顧みて下さる。何故ですか、と言っている。

 その神は具体的にイエス様において御自身を現された
マタイによる福音書
 ☆09:35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 09:36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 ☆11:28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 人は能力や功績によって評価するのに、イエス様はそれらに苦しむ者に愛のまなざしを注がれた。イエス様は特に、病気や患い、弱り果てて、打ちひしがれている者、疲れた者、重荷を負う者、に救いの手をさしのべられた。
 ※讃美歌243番「ああ、主のひとみ」

 [結論]
 私たちは何に目を向けるべきか。弱い者への神の深い憐れみの目であろう。私たちはキリストにおいてこそ神の深い憐れみの目を知ることが出来る。
 キリストを知ることが、神の目、まなざしが裁きではなく、赦しであることを知ることになる。キリストを信じる事によって、神の目、まなざしが深い愛であることを悟ることが出来る。それによって、私たちは能力によって人を見、評価し、裁く目から、人を赦し、愛する神の目へと変えられていくのです。