『迷い出た一匹を捜して』 ルカによる福音書15章1〜7節

1.徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2.すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(憤慨して不満を漏らす)。

 犯罪を犯す者の中には親への反発や教師への反発がある場合がある。受け入れてもらえるべきところで受け入れて貰えず、疎外されると居場所を求めて、悪い仲間へと走るというものだ。

 徴税人や罪人は誰に反発したのか。
 両親にか、それとも律法の教師か。
 徴税人や罪人も会堂シナゴクで子供の頃から律法を学んだ。彼らの反発の一つの原因が指導者(律法の教師)たちにあったのではないか。指導者というのがここに出てくるファリサイ人派の人々や律法学者たちである。彼らは律法の専門家で、民衆に律法を守るように厳しく指導しました。一方、彼らの実生活は外見や形式ばかりにとらわれて、弱い人を思いやる憐れみの心が失われ、自分を義とし、他人を冷たく裁くばかりであった。そんな指導者を見て、律法など守る価値がない、と思ったのかもしれない。
 ※牧師家庭に生まれた子供も反発しやすい。
 親が教会で言っていることと、家庭でやっていることとがあまりに違うときや、半強制的に礼拝や教会行事に参加させられることなどが原因していることが多い。親はどうしても子供の気持ちを理解してやれない。教会にいるのだから出るべきだと親のメンツを優先してしまう。そこで信仰は本当に大切なことだと真剣にしっかり向かうことが私には不足していた、出来なかった。

 ファリサイ派の人々、律法学者たちはどうであったか。世襲制(祭司制)?親から引き継いだものであった可能性が高い。世襲制の良い部分もあるが、弊害は大きい。根本の精神を忘れて、形式的になりやすい。ラビ先生と持ち上げられて高慢になりやすい。

 イエス様はそれを容赦なく批判した。「ああ、不幸だ、ファリサイ派や律法学者。彼らの内側はどん欲と悪意に満ちている。重荷を負われるだけで、指一本その重荷に触れようとしない。」
 徴税人や罪人らは指導者たちのそんな姿を見て反発していたのかもしれない。しかし、彼らも心の中では悔いてこんな者でも神さまに赦して頂きたい、仲間に加えられたいと願っていたのだ。彼らの方からイエスさまに近寄ってきた、というところにそれが垣間見られる。
 イエスさまは彼らの、私たち一人一人の心の内をよくご存じだった。徴税人や罪人がどのような思いでイエスさまの所に来たかをよく知って、心から歓迎されたのである。
 イエスさまは02:06キリストは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6〜8)

 神の身分でありながら、僕の身分となられた。仕える者として、十字架で命を与えるまで仕え尽くして下さった。それは私たちを罪から救い、罪を犯さない命の道に入れるためだった。

 そのことを「羊飼いと羊のたとえ」で話された。
 100匹の羊のうち、一匹が迷い出た。その時、羊飼いは99匹を野原に残して、いなくなった一匹を懸命に探し求めた。羊飼いは当然の如くそうする。日本人にとってはピンと来ない。羊飼いにとっては羊は我が子同然である。たとえ100匹、千匹でもそうするのでしょう。そういうところから、聖書には羊飼いと羊の関係を神と人間の関係にたとえている。

 ※私には子供が4人いますが、4人の子供のうち1人がいなくなったら、3人の子供を残して1人を必死に捜すだろう。もし。、10人の子供がいてもそうするだろう。しかし、100人の子供がいたら、そうするだろうか?後99人もいるから、勝手に出て行ったできの悪い1人くらい、いなくなってもいいだろう、と思う心が起きないだろうか。人間の親なら、どこかに少しはそう思うかもしれない。男親だからだろうか。お腹を痛めた母親はそうは思わないだろう。

 神は100人だろが、百億人だろうが、一人の重さに差別をつけない。できが良かろうが、悪かろうが、信仰深かろうが、不信仰で極悪人であろうが同じ尊い価値がある。そういうことがこのところで告げている。
 羊飼いの100匹の羊から一匹がいなくなったら、それがよく肥えていようが、弱々しく痩せていようが問題ではないのである。兎に角、羊飼いはいなくなった一匹の羊を捜すために99匹は残してでも命がけで捜す。そして、見つかったら肩に担いで、大喜びで帰ってくる。友達や近所中の人々を呼び集めて喜びを分かち合う。
 そのように、神は、神から離れた罪人が一人でも悔い改めて帰ってくるなら、99匹に勝る喜びが天に於いて沸き上がる、というのである。

 これが神の私たちへの思いだ。
 徴税人や罪人がイエス様のところに話を聞こうと近寄ってきたのは、この愛を感じたからだ。イエス様は彼らを大きな喜びを持って迎えた。心から歓迎した。これは今も変わりない。皆さんに対しても同じである。

 私たちは誰も皆、迷いやすい一匹の羊だ。真に弱い存在である。罪の誘惑に陥りやすい者だ。自分で自分の罪を償うことのできないものでもある。いつのまにか冷たく人を裁いてしまう人間になってしまう者だ。
 真の羊飼いであるイエス様の下に行き、その愛の御手の中で守られ、養われなくてはならない。誰でも、それに気づいてイエス様のところに近寄ってくる者を大喜びで迎えてくださる。そして、罪を赦し、清め新しく愛の人に作り替えて下さるのだ。今も、十字架の血潮したたる御手を伸べて、命がけで探し求めて下さっている。この罪の赦しを受け、その愛の中を友に歩んでいこう。


1.徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2.すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした
3..そこで、イエスは次のたとえを話された。
4.「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

5.そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6.家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7.言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」