「福音とは分裂と一致を」 使徒言行録14章1〜7節
                マタイによる福音書10章34〜39節


 1.出自・・・どこから出て、何処に向かっているのか
 イスラエル民族は旧約聖書を読むと、約4千年前、始祖アブラハムから始まって約2千年の間(イエス・キリストが来られるまで)、自分たちだけが、神に選ばれた特別な民族、唯一の神の民と思い込んでいた。神を独占していたといってもいい。彼らはエルサレム神殿(幕屋)を中心に律法を守り、朝ごとに罪の贖いの犠牲を捧げ神を礼拝していた。しかし、不思議なことに、彼らは神の御心を悟らず、肉に従い、礼拝も偽善的、形式的なものになり、信仰から遠く離れたものになっていた。
 それは神の祝福を信仰に寄らず、自分の力で、律法を行うことで神の祝福を得ようとしかたらだ。
 そんなイスラエルの民に神は、かえて約束していた通りメシアを使わされたのです。それが今から2千年前、天からこの世に降ってこられた御子イエス・キリストです。
 神は御子を通してイスラエルだけでなく、全ての人に神の民、神の子となる道を明らかに示された。それはイスラエル民族という血筋でも、律法の行いでもない。御子イエス・キリストを信じる信仰によるものです。この十字架の死によって成し遂げて下さった罪の贖い、赦しを信じるものは誰でも神の民となる、神の祝福を受けることが出来るのである。

 イスラエルの民も、それ以外の全ての民も皆、間違った道を歩んでいる。これは肉による、人の欲による道です。彼らはその欲に従い、自らの力、能力に従って、全てのことを成し遂げることが出来ると信じてきた(バベルの塔、現代社会、中国のめざましい発展)。しかしそれはとりもなおさず神への不信仰の道です。神が人間に知恵と力を与え、この大自然の全ての資源を与えたのにもかかわらず、あたかも自分一人で何もかも作り出したかの如くに、自分の力を誇示し、それにより頼み、神を軽んじ、神への感謝と尊崇の念を欠いてきた。それを一言で言うなら。「親の心子知らず」です。まず、私たちにとって大切なことは、自分を知り、神を知らなければならないということです。
@自分を知る
  私たちは神を知らず、神のお心も知らず、自分の欲に従い、自分の力に頼り、自己中心に生きてきた。親に感謝もせず、この世の論理に従ってきた。そこには行き詰まりしかなかった。親への恨み、他者へのねたみ、自分への失望ばかりがあった。罪の泥沼に落ちていくしかなかった。
A神を知る。
  神はこんな私たちにも大切な一人として造られたのである。この世界は神によって造られたこと。神は全ての想像主であること。その神は人を御自分のかたちに造られたこと。そして、一人一人を愛し、御子イエス・キリストを、この世を救うために遣わされた方であること。神はこんな罪人の、不信仰な私たちを御子の命と引き替えにするほど愛して下さっていること。神は私たちがいつもこの神の愛と光に顔を向けて生きることを望んでいることである。

 2.福音はユダヤ人から異邦人へ
使徒言行録14章
14:01イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 14:02ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
14:03それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
14:04町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
14:05異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
14:06二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。
14:07そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

 3.「福音は分裂と一致を」
 福音は霊に従う道を指し示すもの。それは今までの肉に従う道とは反対の道である。肉は自分の欲に従い、自分の力により頼んで生きる道。霊はイエス様を信じ、従う道、神の力により頼んで生きる道だ。
 イコニオンの町の人々は分裂し、二つに分かれた。
 霊は肉の欲を全面的に否定するのか。そうではない。何を主人とするかである。肉を主人とするか、霊を主人とするかである。 
 イエス様は、「神と富とに兼ね仕えることは出来ない。まず、神の国と神の義を求めよ」と言われた。そうすれば必要なものは全てそえて与えられると。肉と霊は二つに分裂をさせる。向かう方向が逆であるからである。しかし、福音は信の一致、平和へと導く。

マタイによる福音書
10:34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。


 ※升崎外彦 みなべ町、労祷学園 「荒野に水は涌く」
 明治25年4月、金沢に生まれた。10歳で得度。しかし14歳ころから「人とは何か?」と悩む。16歳の時、受洗、牧師に。父、激しく反対する。

10:36こうして、自分の家族の者が敵となる。
10:37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」