「福音は一致をその他は自由と愛で」 使徒言行録15章22〜41節

【我々の立場】
@「聖書の語るところ語り、聖書の黙するところは我々も黙す」
A「信仰の根源的な面では一致を、見解や意見の相違では自由を、その他全ての面では愛を」
【パウロ生い立ち】
 彼はギリシャ州タルソという都会で生まれ、名門タルソ大学でギリシャ哲学を学び、ギリシャ世界の空気を一杯すったユダヤ人(ヘレニスト)であった。パウロはその後エルサレムの高名な律法学者ガマリエルの膝元で律法を学び、誰よりも熱心に、全精力を傾けて律法を行った。そのようなとき、あの最初の殉教者となったステファノの演説を聞いて、神殿も律法もないがしろにするクリスチャンに大して激しく憤り、彼らを迫害したのです。ところが、パウロはダマスコ途上でキリストに出会い、そこで彼の人生は180度転換したのです。今度はキリストの福音のために全精力を傾けて、命をかけて伝道するようになったのです。
 教会では迫害者であったパウロが「慰めの子」バルナバの執り成しで初めて、教会は受け入れられ、キリストを信じる者として認められたのです。

 異邦人が救われるためには「キリストの福音」を信じるだけでよいのか、それとも福音プラスαが必要なのか?
 この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、その他の数名の者がエルサレムへ上って行った。しかし、ここでもファリサイ派の信者から「割礼と律法を守ることが必要だ」との異議が出た。

【ペトロの答弁】
 15:11わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
 「主の恵みによって」とは
 キリストの福音を信じる信仰だけで救われる。救われるためにイエス様が全てのことを成し遂げて下さった。それはイエス様の十字架と復活による罪の赦しです。私たちはただそれを信じるだけでよいのです。それによって私たちも罪許されて、イエス様につながり、神につながり、神の子とされるのです。これが主エイスの恵みです。これ以外のものは何もいらない。律法も割礼も、私たちのよい行いもいらない。ただ、エイス様を救い主と信じる信仰だけでよいのです。これが福音(良きおとずれ、グッドニュース)です。

 【ヤコブ(イエスの兄弟)の答弁】
 アモス書9:11.12の異邦人の救いの預言、今それが実現しているのだ、
 ただ、異邦人はユダヤ人達が忌み嫌っている偶像に供えた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血を避けるように!
 ただ、これは救いとは関係無いが、愛の問題として提案します。

 以上の言葉によってそこにいた一同の中に聖霊が満ち、反対していた者たちも納得し、全員が心を一つにしたのです。つまり根源的な面では一致したのです。又、枝葉の面では自由と愛をもって対処したのです。
(アモス09:11その日にはわたしはダビデの倒れた仮庵を復興しその破れを修復し、廃虚を復興して昔の日のように建て直す。
09:12こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。)


【手紙12:23-29】の内容
15:23使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 15:24聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。 15:25それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。 15:26このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
15:27それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。 15:28聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 15:29すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」


15:26このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
最高の賛辞です。賞め言葉です。二人はイエス・キリストの名のために身を献げている。それは人間の決心で出来るものではない聖霊の働きです。そのような思いにさせられ、そうする力を与えて下さるのは神です。

15:28聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
 「聖霊と私たちは」面白い表現です。福音の一致とユダヤ人への配慮への結論は、確かに私たちの議論を聖霊が導いて下さった、
という意味で使ったのでしょう。
【この手紙における主旨】
 「パウロとバルナバが語った福音は間違いない。何ら付け加える必要はない。安心して下さい。あなた方はキリストの福音を信じるだけで救われているのです。神は私たちと同じように、あなた方異邦人を受け入れて下さっているのです。その他のことは愛に於いて配慮するように。」

【自由と愛の問題】15:36数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」 15:37バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。15:38しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。 15:39そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、 15:40一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。 15:41そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。
 バルナバはパウロの提案を受け入れ、そこにマルコも同行させたいと思った。ところが、パウロはそれに賛成できなかった。なぜなら、最初の伝道の時、パンフリア州のベルゲで、マルコはパウロ達を見捨てて、エルサレムに帰ってしまったからだ。そんなマルコは絶対に連れて行くべきではない。大きな恩のある信仰の先輩バルナバに反対したのです。二人の意見は激しく衝突した。お互いに譲らなかった。愛は寛容であり情け深い、とパウロは言っていますが、この時は厳しい態度を取ったのです。これはどちらが良い悪いではなく、また信仰の根源的なことでなく、自由と愛の問題であった。
 この後、バルナバは一度も出てこなくなったが、マルコはパウロの手紙に何度か出て来ます。パウロの手紙から、マルコ復活の姿です。
☆コロサイ04:10わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
 ローマの獄中からコロサイの教会への手紙
テモテ二4:11ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
 これもパウロの晩年の手紙。マルコへの信頼が回復されています。そしてこのマルコは「マルコによる福音書を書いた著者のマルコ」です。
 かつてはパウロから途中で帰ってしまうようなヤツは使い物にならないと言われたマルコがその後パウロの大きな慰め、助けになろうとは!神のくすしき導きと言うほかありません。

 何が根源的なものか。救われるためには「キリストの福音」を信じるだけでよいのか、それとも福音プラスαが必要なのか?
 救われるために必要なことは全てイエス様がなして下さった。ただイエス様がなしてくださったことを信じる信仰だけ。その信仰によって、イエス様につながり、神とつながるのです。キリストの福音にしっかりとつながり、神からの祝福を豊かに受けたいものです。礼拝はそのためのもの。神の真に恵みに答える、私たちの真を表すものです。