「喜び誇る」 ローマの信徒への手紙5章1〜11節

 私たちは今、喜んでいるでしょうか。誇っているでしょうか。いやむしろ、悲しんでおり、憂えており、自信を失っているのではないでしょうか。
 だから、聖書の御言葉は、まさに悲しみに沈んでいる私たちの、自信喪失している私たちの、手を引っ張るようにして、あなたがいるのはこそではなくて、こっちだよといわんばかりに招いて下さるのです。御言葉(福音)は、そのように絶えず、信仰者の真実な姿を確認させ、私たちを真実な道へと導いて下さるのです。

 @神の栄光にあずかる希望を誇る 5:1.2
05:01このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 05:02このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 信仰というのは、「鰯の頭も信心」からちう根拠のない信仰ではない。その信仰の根拠とは、イエス・キリストを信じる信仰であって、このキリストの救いのみ業の歴史的事実が根拠である。すなわち、
04:25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
 イエス・キリストの十字架と復活です。それを信じる信仰によって義とされるのです。

 「義」とは本来「正しい、罪がないこと」です。聖書は「罪が赦され、正しい者とされること、神との正しい関係(平和、和解)に入れられること」です。
 神の栄光とは何か
 一頃で言えば永遠のいのち、具体的には神とイエス・キリストを知ることです。
ヨハネによる福音書「17:4わたしは、行うようにとあなたがたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」
 最終的な神の栄光とはエイス様の十字架と復活です。
 そのような神の栄光とは神の御業が現されること、その目的は神とイエス・キリストを知らすため、それはすなわち「永遠のいのち」与えるためである。これにあずかる希望を誇りにしている、喜んでいるというのです。
 考えてみますと、このような希望は、誇りは、普通には全く出てこない考えです。聖書の言葉で言えば、「肉から生まれる者は肉」です。にkじゅの希望や誇りは神を知ること、神の栄光ではなく、富、成功、名誉、健康です。
 私達が神について考えることは、悪いことをすれば罰が当たる、不幸なことが起きると神の罰が当たったなどということです。神と争い、敵対関係にあるとは思っていませんが、どうも親しい関係にあるとか、誇りにしている、喜んでるとかといった関係ではありません。
 しかし、霊から生まれるものはそうではありません。つまり信仰によって、主イエス・キリストによって生まれてくるものは義であり、神との間の平和、和解、神を知ることの誇りと喜びなどです。;

 A「苦難をも誇る」5:3〜5
05:03そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 05:04忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 05:05希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 本当に知っているだろうか。
 今、受けているこの苦難は自分に忍耐を与え、自分を練り、鍛え、そして必ず希望へと繋がると信じているだろうか。さらに、それを喜んでいるだろうか。誇りに思っているだろうか。いや、むしろ憂えており、悲しんでおり、失望しているのではないだろうか。
 しかし、聖書の言葉はそんなうなだれて、視線を下に落としている者に、目を上げて遠い彼方のものに目を向けさせる。
 この世においては苦難は神の罰である。苦難を受けている者は罪を犯したのだ。そして、わたしたちもまたそのような思いにさせられるのである。
 そんな私たちを御言葉はこの力強い姿へと導き入れる。私たちが忘れていたものを思い出させてくれて、気づかせてくれるのである。再確認させてくれる、新たに発見させられるのである。なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって神の愛が注がれているからである。
 絶望に陥っても仕方がないような者が、なおそのような中で希望を生み出すことがあるのでは、聖霊によって神の愛が注がれているからである。

 「聖霊によって神の愛が注がれる」
とは、どういうことなのか。
 ある人は面白い表現をしています。それはちょうど北極の海上を大型の輸送飛行機が飛んでいるようなものである。もし燃料切れになれば、極寒の海に落ちてしまう。しかし、その飛行機は常に空中で給油を受けているから落ちることはないのだと。
04:25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
 ここから、これを信じる信仰にほって、神の愛が注がれるのです。これが福音のエッセンスです。福音は私たちに誇りと、喜びを与える。
05:02このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
05:03そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を
05:11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 B福音 5:6〜11
05:06実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 05:07正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 05:08しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 05:09それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 05:10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 05:11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


 聖書の御言葉(福音)は絶えず私たちを、喜びと誇りの道へと導き入れて下さるのです。