「主イエスの名による」 使徒言行録19章1〜20節

 エフェソはトルコの西の端、エーゲ海に臨む町であった。今は遺跡しか残っていませんが、聖書当時のエフェソはローマ、アレキサンドリアと並ぶ三大都市の一つで大変繁栄していた。

19:1〜3
19:01アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、 19:02彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。 19:03パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
 ペトロが語った説教で、「悔い改めなさい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒3:38)パウロはこの聖霊を私たちの内に住んで下さる「内住のキリスト」お呼んでいます。(ガラテヤ02:20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。)
 聖霊を受けていない。イエス・キリストの名によってバプテスマを受けていない。何がおかしいのか。一言で言えば、神の前に相応しい人間になろうと、神の力、聖霊により頼むのではなく、自分の力で一生懸命に頑張っている姿である。

19:04〜7
 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」 19:05人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。19:06パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。 19:07この人たちは、皆で十二人ほどであった。

「ヨハネのバプテスマと主イエスの名によるバプテスマの違い」
 この二つの違いについて、ある本にこう書いてあった。「ヨハネの宣教は挑戦であり、イエスの宣教は福音と呼ばれる良きおとずれである。ヨハネの宣教は死と滅びを迫っているため、良き訪れとは呼ばない。しかし、ヨハネの宣教は信仰生活に入る際の二つの段階を結びつけるものとして、必要不可欠のものであった。」
 主エイスの名によってバプテスマを受けた者には誰でも賜物として聖霊が与えられる。今まで自分の力により頼んでいた者が、日々、内なる聖霊により頼むのがキリストを信じる者の生き方である。聖霊の働き無くして、私たちは罪に打ち勝つ事も、本当によい行いもできない。また、互いに赦し、愛し合うこともできない。聖霊は信じる者に無限の力を与えて下さる内なる神、内住のキリストです。

19:08〜12
パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。 19:09しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。 19:10このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 19:11神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。 19:12彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。

 神はこのパウロの手を通してめざましい奇跡を行われた。
 「神はどこででも用いようとする手を探しておられる。」
 私たちは自分の手で奇跡を行うことはできないかもしれないが、その手を差し出せば、神がこれを用いて必ず良き働きをなして下さる。

19:13〜16
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。 19:14ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。 19:15悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」 19:16そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。

 「試みに」とは、本当かどうか、パウロもイエスも信じられないが、おもしろ半分、興味半分にやってみよう。そういう思いが込められている言葉である。モーセの十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20:7)との戒めがある。みだりに、とは軽はずみな気持ちで、何度も、と言う意味です。親しみも、信頼もない中で、試みに主イエスの名を唱えるならば、とんでもない結果になる。主を侮ってはならない
との

19:17〜20
19:17このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。 19:18信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。 19:19また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。19:20このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

 当時、エフェソは異教的迷信の中心地であった。おまじないの文句と呪文が書かれた「エフェソのお守り札」は有名であった。世界中から来た人々が、呪文と魔除けを書いた札を身に着けるために、魔法の羊皮紙に高い金を払った。
 しかし、パウロが語る神の言葉を聞き、主イエスの名によるバプテスマを受け、信仰に入った人々は自分達の悪行を告白し、今まで魔術を行っていた多くの人も、その書物、巻物、秘伝、御札を持ってきて皆の前で焼き捨てた。多くの人がその決断をした。彼らは生活の土台を失うことになった。彼らは焼き捨てることで、背水の陣を敷いた。これからどう生きていけばよいか問うことをせず、きっぱりと全てを捨てた。
 私たちは罪から離れようとしているときでさえ、ためらったり、後を振り向いたりする。人生には決定的な断絶が必要な時がある。
 
 私たちを本当に守ってくれるものは何か。 
 全知全能の神。御子をさえ惜しまずに与えて下さる神。聖霊をして、内住のキリストとして、目には見えないが確かに共にいて慰め、励まし、助けてくださる神。この神に真剣に祈り、真実に向き合っていきましょう。