『神の御心と導き』 使徒言行録18章18〜28節

 パウロはコリントに一年半いた。ユダヤ人会堂にあったユストの家で神の言葉を教え続けた。これまでこれだけ長く腰を据えて、語り続けたところはなかった。問題の多い、苦労の絶えないコリントであったが、パウロは伝えることは十分伝え、自分の役目は果たした充実感はあったでしょう。
 あとは、主に委ねて、まだ福音が伝えられていない他のところに伝道し、また、かつて伝道した教会を訪問しようとの思いに導かれた。
18:18パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。
 
  「誓願を立てていたので髪を切った。」  唐突に出てきた言葉だ。パウロはいつ、どこで、どんな誓願を立てていたのか。そもそも髪を切る切らないなどといった形式的なことをパウロが何故したのか。誓願のことは旧約聖書に記されている・
「ナジル人の誓願」 民数記6:2〜(P220)
 主に献身する人:終世献身(サムエル、サムソン、Bヨハネ)、一般的な献身ブドウ断ち、濃い酒、ブドウの生も干しぶどうも食べない。頭にカミソリを当てない、神殿で捧げものをする・・・

※パウロの誓願
 どんな誓願であったか。具体的には書いていないので、想像するしかない。
コリント一の手紙より
2:1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣伝えるのに優れた言葉に知恵を用いませんでした。
2:2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架に付けられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
2:4それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
 「知恵による言葉ではなく、十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと決めた。神の霊と力による、ここに達続けるように!」これがコリントにおけるパウロの誓願ではなかったか。その誓願のために髪を切った。そして、コリントを去るまで一年半、髪を切らなかった。ブドウ断ちもしたのだろうか?それだけキリストの十字架の前に真剣であった。

 
神の御心ならば
18:19一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。
18:20人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、
18:21「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。

 彼らはもっといて欲しいと願ったが、パウロは「神の御心なら戻ってきます。」と言って、別れた。この後、一年ほどしてパウロはエフェソに戻ってきた。そして、そこに約3年も居たのである。

 神の御心は何か。
 「神は独り子をたもうほどに世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
 それは、居なくなった息子が父の元に帰るように!一人でも多くの人がキリストを信じ、神の御許に帰ることである。
 神の御心は何か。ブドウの木と枝のように、キリストにしっかりと繋がり、成長し、豊かに実を実らすことである。
 神の御心は何か。教会が世の光、地の塩になる事である。

18:22カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。

 第三回伝道旅行へ
 18:23パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。


 聖書に精通していた雄弁者アポロ
18:24さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。
18:25彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
18:26このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
18:27それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
18:28彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。

 アポロはメシアへの知識はあったが、信仰はなかった。そこでプリスキラとアクラはもっと正確に神の道を教えた。つまり、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと新たな命の約束である。このことを信じて、イエスの名によるバプテスマを受けるなら、その信仰によって聖霊が与えられることを教えた。

 パウロが伝道した各地の殆どの会堂は跡形もなくなっている。しかし、そこでキリストを信じた人の信仰はあちこちで受け継がれていったことでしょう。現代においても教会の栄枯盛衰はある。一つの教会がたとえ無くなっても、そこで蒔かれた種はあちこちで息づいている。
 神の御心は御子イエスを信じて永遠の命を頂くこと、そしてキリストにしっかりと繋がり、世の光、地の塩となることである。神の導きを求めつつ日々、御心に向かって進もうではないか。