愛は神から出る』 ヨハネによる福音書4章7〜11節

04:07サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
04:08弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
04:09すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
04:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
04:11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

 ◆42歳の女性国会議員がタクシーの中で、男性秘書に対して、金切り声で叫んでいる音声か公表された。耳を疑うようなひどい言葉でした。
 「ちーがーうーだろ!」「このハゲー!」「生きている価値がないだろ」
彼女の経歴は輝かしいものです。
東京大学法学部を卒業後、ハーバード大学大学院を卒業。
・2003年 金融庁総務企画局に入局(エリート官僚)
・2011年 厚生労働省入局
・2012年 衆議院議員選で当選
・2015年 オリンピック大臣政務官就任
 まさにエリート中のエリートのコースを歩んできた。その彼女が日常から暴力を奮っていたという。秘書やスタッフに対して、殴る蹴るはもちろん、ハンガーやバックなどで叩かれたこともあるという。 
 何故でしょうか。彼女がここまで上がり詰めた背景には、自分に厳しく、一生懸命に努力し、激しい競争を勝ち抜いてきたという強い自負心があったのではないか。つまり自分の努力、才能、知識、業績などへの自信と誇りをもっていた。それに比べて男性秘書の無能さ、ふがいなさに腹が立って、腹が立って仕方がなかったのかもしれない。
 出来る人が出来ない人に向かって「どうしてこんな事さえ出来ないのか?」やる気があるのか、と苛立つ極端な例でしょう。
 彼女は2011年に厚生労働省に入っている。厚生労働省は、子どもや老人、病人や障害者など弱者に対して様々なことを決める最高機関です。

 ◎これまで、私たち日本人が第一としてきたものは、思いやりや愛ではなかった。能力であり、成果であり、業績であった。それを通して安定した生活、豊かな生活を手に入れることであり、富と地位を得ることであった。それが最も価値があるものとして、この社会が求め、目指してきたものです。そのために学力を高め、良い学校に入り、知識、技術、資格を身に着けることに力を注いできました。それは生きていくためには大切な要素です。しかし、それが余りにエスカレートしていく中で「難いに愛し合いなさい」ということは、現実離れした言葉となり、真剣に取り上げられなくなってしまった、どこか心の奥の方では大切なことだとは思っていても、現実を見るとそれではやっていけない。少なくともそれをもっとも大切なこと、第一とは出来なかった。それは家庭でも、学校でも、ましては社会でもです。
 しかし、その結果、家庭は、社会はあちこちであらわになり、醜い姿を露呈してきた。平和を願っているのに、争いが絶えない。
 女性国会議員の例は極端な姿ではありますが、社会全体が、世の中全体が、いや、わたしやあなたの中にも、この価値観に毒されているところが根強くあるのも事実です。そして、そこに争いの根源があり、平和から遠ざかっている原因があることに気付かないのです。
 そのように私達は今でも「互いに愛し合う」と言うことを一番大切なこととして考えて来なかった。

 ◎ところが、聖書は最も大切なこととして「互いに愛し合いなさい。」とハッキリと私た達に勧めています。そしてその愛は、神から出ている、というのです。私達が持っている愛で「愛し合おう」というのではありません。神から出ている愛で「互いに愛し合いなさい」と言うのです。
 全ての人はいつでも、どんな時でも、この主の言葉に真剣に向き合うことが求められています。この事は幸いの源となるからです。

 ☆スエーデンの神学者ニグレンは、人間の愛と神の愛の違いを次のように分析しています。
 愛を二つに分けている。エロースとアガペーです。これはギリシャ語でどちらも「愛」という意味です。
 「エロース」エロス、つまり肉体的な愛、情愛を連想します。ニグレンはそれだけでなく人間の愛全般をこの言葉は表しているというのです。エロース・人間の愛はすべて「価値」に基づいた愛である。例えば、あの人は英語が堪能だ、コンピューターの知識が素晴らしい、スポーツが出来る、性格がよい、やさしい、学歴が高いなどなどです。相手の中に価値あるものを見出して。それを愛する、それに引かれて、その人を愛するというようにです。もっと言えば、自分にないもの、欠けているものを相手が持っているかで愛するのです。これを「〜のゆえに」愛する。価値に基づいた愛エロースというのです。もし、病気になったり、年を取ったりして、その価値が無くなってしまえば、愛もなくなるということになる。

 一方「アガペー」は神の愛専用の言葉です。実は今日の聖書には愛という言葉が13回出てきますが、全てアガペーが使われている。アガペーの愛は「価値」に基づかない愛です。対象の価値によって引きつけられない、左右されない愛です。つまり「〜のゆえ」に愛する愛ではありません、何もなくても。いやどんな罪深い者でも、どんなに反逆する者でも、敵さえも愛する愛です。価値が無くなっても愛する愛です。だからこの愛を「〜にもかかわらず」愛する愛というのです。それが神の愛アガペーです。
 この様な愛で私達は神に愛されているのですから、私達も互いに愛し合うべきです。