『信仰とはなあに』 マタイによる福音書8章1〜13節

 信仰って何だろうか?
 あなたは何を、どの程度、信じているのだろうか。それは実際の生活の中でどれほどのウェートを占めているだろうか。 
 
 ティリヒという神学者は信仰についてこう言っている。
 「信仰は究極的な関わりのあるものへの、自己の全存在をあげても関与である。」
 「究極的な関わり」とは生活全般はもちろん生死においても、死んだ後においても関わり続ける、ということだ。信仰とは、、そこまで関わってくれるものに対して、自己の全存在を上げて関与することだ、という。
 なるほど、自分にとことん関わってくれる者に対して、自分も一生懸命に答えていこう、関与しようとするものだ。ある意味でが高校野球などで見られる監督が選手と寝食を共にし面倒を見る選手はそれに答えようとする。そこに信仰に共通したものを見る。しかし、それは人生の一部であって究極的な関わりとは言えない。
 私たちに対して始めから終わりまで究極的な関わりを持てるのは神のみであると言わざるを得ない。それはイエス・キリストの十字架と復活において明らかにされた。神が私達に求める信仰は100%の信頼だ。なぜなら、神が100%の関わりを持って臨んでいるからである。だから「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じる。

 それは夫婦の関係においても例えられている。(エフェソ5:21〜)
「05:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 05:22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 05:23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 05:24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 05:25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
 そのように夫婦は基督が私達に究極的な関わりを持って下さっているように、互いに自己の全存在をかけて関与しなくてはならない。それはキリストとの関わり無しには不可能なことであるl。

 さて、今日の聖書の箇所に二人の人がイエス様のもとに来ている。一人は重い皮膚病(ハンセン病)を患っていた人、もう一人は中風で苦しんでいる僕を持っていた百人隊長です。彼らは、イエスを、究極的な関わりを持って下さる方とそて、自己の全存在をかけて関与していった人達でした。イエス様はそれを彼らの「信仰」として受け止められたのです。
 1.重い皮膚病を患った人(8:1〜4)
08:01イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
08:02すると、一人のらい病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
08:03イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、らい病は清くなった。
08:04イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
 まず重い皮膚病を患っている人ですが、彼は家族からも医者からも見放され、宗教的な指導者たちからは神からの罰をうけているのだと宣告され、この世から隔離された生活を強いられていた。彼らは一般の人には近づけない人でした。そんな彼がどのようにしてかわかりませんが、大勢の群衆の中に居たイエスに近寄って行き、足もとにひれ伏し「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。」と言ったというのです。
 @誰の所に行くか Aどのような態度で行くか B何を、どのように求めるか

 @誰の所に行くか。最も大切なことです。しかし、何が本物で偽物か見分けるのは難しいものです。特に若い時は。
 この人がイエス様のところに来たのはなぜだか分かりません。信頼できる仲間からきいたのかもしれない。この方ナザレのイエスに自分の全て、全存在をかけて行ってみようと覚悟を決めた。
 あなたはどのようにして教会へ来ましたか、イエス様のことを知りましたか。
 
 Aどのような態度で行くか
 彼は近寄り、病気が病気ですから、見つかれば汚れた者として石打の刑、袋だたきにあって殺されるかもしれない。ビクビクしながらも覚悟を決め、勇気を出して近寄った。そして、彼はひれ伏した。ひれ伏すと言うことは、罪多い者が高貴な、権威あるものの前に出た時の態度です。
 彼は人目をはばかりながらも、自己の全存在をかけてイエス様の所に行った。

 B何を、どのように求めたか
 「主よ、キリエ」とは先生、ご主人様、天地の主、イエス様に最大の尊敬を込めた言葉でした。「主よ、この様な汚れた病気の私を清くすることが出来るのは、あなた様のご意志次第です。」信仰告白です。この告白は、生ける神のみがお持ちの力とお慈悲をあなたは持っておられる、との意味がこもっています。
 イエス様に対して、神にも等しい特別に慈悲深い方として見込んで発した言葉でした。

 神への信仰は病気の癒やしではなく、根本的な問題である罪の赦しにまで至る必要がある。様々な問題を通して、苦しみの根源である。自分の罪の姿を知らされ、、イエス様は十字架につき、復活され、その罪から私を救ってくださる。とここに行き着くとき、、信仰が根付いたといえる。生涯をかけてこのイエス様を信じ、仰いで従って行こうと願う。また、彼は私達の術tげの生活を導き、必要を満たし、正しく導いてくださることを確認させられる。きっかけは病気であったり、家族や友達に誘われることであったり、します。種が蒔かれ、それが根付いていくまでに紆余曲折がある。どれくらいで根付くか分からない。すぐに根付く人もいる。(四つの種=道ばた、石地、イバラ、良い地・御言葉を聴いて悟る人)

 2.百人隊長(8:5〜13)
08:05さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
08:06「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
08:07そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
08:08すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
08:09わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
08:10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
08:11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
08:12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
08:13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 信仰は、病気の癒しや、年を取って死んでいく者のはかない慰め程度のもの、お墓に行くまでのものではない。日々の生活全般、そして永遠まで保証してくれるものである。
 イエス様は究極的に関わって下さる方、私達も自己の全存在を持って関わっていこうではないか。