ローマの信徒への手紙 3章21〜26節

03:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
03:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
03:24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
03:25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
03:26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。


 ある時、公衆浴場に行った時、先に入っていた一人の年輩の男性から、湯船に入る前に、石鹸で体を洗って入るように、いきなり言われました。いつもはかけ湯をして入るだけでしたが、その日はその人の言うことも最もだと思って、石鹸で体を洗って入りました。後で、何と潔癖な人、お節介な人だなー、と思ったものでした。

 かけ湯もしないで入る人、かけ湯だけして入る人、石鹸で丁寧に洗って入る人、体の汚れに対しての自覚の違いがありように、罪の自覚も人によって違います。しかし、どんなに体を洗っても完全に綺麗にすることが出来ないように、罪も完全に取り除くことは出来ません。罪の問題は気にすれば気にするほど、ノイローゼになるほど悩まされます。
 体の汚れなら放っておいても臭い匂いがして、人から嫌がれれるぐらいですが、罪の汚れは、まず、自分の中に分裂を起こします。正しいこと、人を愛したいのに出来ない、反対のことをしてしまうなど。また、人と人の間に争いを起こします。貪欲、嫉妬、憎しみなど。更に重大なことは、神の前に出て申し開き(裁きを受けること)があるのです。
 しかし、人間はどんなに努力しても、救われることも、義(完全に罪がきよめられること)とされることも出来ない弱い愚かな存在です。

 21節に「ところが今や」
 律法(道徳、人間の行い)には限界がある。律法の行いによっては人間は決して義(神の前における正しさ)とされることはなく、むしろ律法を守れば守るほど、自分の罪の自覚が生まれてくる。
 その窮地に陥っている人間に、神のほうから、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって、すなわち、イエス・キリストの贖いの業(十字架と復活)によって、神の義が与えられる、と言うのです。そこには何の差別もありません。それは今までの人間の行いによる義ではなく、神の恵みによって与えられる義なのです。