「聖霊降臨」 ヨハネによる福音書14章9〜17節  使徒言行録2章1〜4節
 (ペンテコステ)

 今日は聖霊降臨の記念日、ペンテコステとも呼ばれ(イースターから50日目)、教会ではこの日を教会の誕生日としています。
1.約束されていた聖霊とは
 ヨハネによる福音書14章に聖霊とはどういう方かが記されているので見ていきましょう。
 ヨハネによる福音書14章9〜17 
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

 もし誰かがこんなことを話したら、頭がおかしくなったのか、それとも傲慢不遜な言葉としか、受け取られない。当時は神への冒涜罪で死刑にされるものだった。
ヨハネ5:18「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」
 長く一緒にいた弟子たちも分からなかった。「この方の内に生ける神がおられる。いや、この方こそ生ける神が人の姿を取って来られた方だ。」とは。それは神の霊、聖霊によらなければ分からないことなのだ。イエス様は、求めよ、そうすれば誰でも聖霊が与えられる、と言われる。
「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」(ルカ11:13)
「聖霊によらなければ誰もイエスは主である、とは言えないのです。」(コリントU12:3)

 ある時、イエス様の十字架に、命までも投げ出して、罪人を救わんとする真の神の姿を見る。それこそ聖霊が明らかにして下さったことなのだ。
 イエスの内に神を見させてくださり、信じるに至らせて下さるのも、聖霊によってなのである。

14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

聖霊の約束
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 「わたしの掟」とは何か。それは13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」だ。守ろうと思うが、この言葉が命じていることと自分とはかなり離れている。それが正直なところ。
 だから、「16:わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と言われた。 
 今まではイエス様が弟子たちの弁護者であり、助け主あり、慰め主であった。しかし、もうすぐイエス様は弟子たちと別れなければならない。そのことを思い、先ず大切なことはイエスの名によって祈ることの大切さを教えている。そして、16節の言葉。ご自分の代わりに別の弁護者を使わして下さるように、父に願って下さるというのだ。 
 イエス・キリストは、今もこの世を去らんとするにあたり、「別の弁護者」すなわち聖霊を父に願って信じる者のために送ってもらい、永遠に信じる者と共におらせ、二度と彼らを離れることがないようにされる、という。だからイエス様が天に帰られた後も弟子たちはなお神の愛の中にいる幸いをもつことができる。それゆえに聖霊が与えられること(聖霊の内住)は神の恩恵によるものであることを忘れてはならない。

2.聖霊降臨の次第  使徒言行録2章より

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 原文は直訳すれば「日の如きものの分裂した舌が現れ」となる。火もまた聖霊を示す最も相応しいものであって、「人の心に火を点じ、この世の虚栄を焼き尽くし、万物を潔め新たにする」ものである。これが多くの枝に分かれて舌となったのは、一つの聖霊が多くの人に分与せられ、従って多くのキリスト者が合わされて一つのキリストの体であることを示し、「舌」は「言語」と同文字で、バベルの塔以来、言葉が通じない諸国民が聖霊の言葉によりて一つに帰せられる事を表徴しているものと見ることが出来る。聖霊を受けた者は皆キリストにありて一体である。

 聖霊降臨を受けたペトロは集まってきた人々に福音を語り、その最後にこう言って勧めた。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいる全ての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38.39)