「神の似姿として」 創世記1章27.28節
    ニスガタ

 私たち人間の身体は、呼吸によって酸素を吸入し、二酸化炭素を吐き出す。また、この二酸化炭素は石油や石炭など化石燃料の燃焼などによっても排出される。ところが、緑色の植物は光合成によって、人間とは逆に二酸化炭素を取り入れ酸素を吐き出す。人間の呼吸と植物の光合成がお互い逆の物質を出しているというのは自然の驚くべき摂理である。光合成は葉のはたらきのひとつで、二酸化炭素と水を使って、デンプンと酸素を作っている。ここで発生する廃棄物である酸素のおかげで、地球上の多くの生物が生存できている。しかし、急速な近代化と大規模な自然破壊によってこのバランスが大きく崩れている。今日は創世記の記述から人間と自然、人間と神、その関わりについて考えてみたい、と思います。

 1.人間と自然。1:27〜31
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 私たちは自然を、地球をどう捕らえているか。その認識はどうか?
 神は人間に「地を従わせよ」「全てを支配せよ」とおっしゃった。人間に自然を任せられた、ということだ。全てが極めてよかった、とあるが完全な状態の自然を、人間は神様から委ねられた。神から委任され責任を持って管理するようにされた。世界は創造者である神が支配される場所であるが、それを神は人間が管理するように委任されたのである。人間は委任を受けたのであるから、委任者の意志に沿って、これを管理しなけらばならない。それが自然に対する人間の責任である。神の意志は人間と自然の共存、共栄であろう。
 しかし、人間は神に背を向け、自分勝手な道を歩み出したことで、自分の繁栄のみを考え、欲望の虜になっていった。「自然」を欲望の対象としてしか見なくなった。豊かな森、動植物、海の魚、地下資源を欲望の対象として奪い合っている。早い者勝ちのように競って、根こそぎ奪っていっている。工場の煤煙も、自国の繁栄のためなら大気汚染もしかたがない、とでも思っているのだろうか。これが大方の自然認識だ。自然に対する根本認識が狂っている。

 何故そうなったか。人間と神の認識が違っているからだ。
 2.人間と創造主なる神 1:27,2:7
 人間とは何か。昔から多くの人が考えてきた。
 聖書は、人間を一面的にとらえるのではなく、具体的現実的に理解している。すなわち、第一に人間は神ではなく、神によって造られた者・被造物である。神によって創造された世界の一部である。しかし、第二に他の被造物と違って、神と交わり、神の語りかけに応える人格性を持っている。この点が人間認識で大切な点である。
 では聖書の記述を見てみましょう。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
 2:7には神が人間を「土の塵で形づくり」「その鼻に命の息を吹き入れる」ことによって生きる者となった、と表現している。これは人間の身体的特性と精神的特性を現すものである。
 土から造られた人間という考えには、人間の弱さ、もろさが示されている。人間は「土に返る」(3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」)、死ぬべきものである。有限なものである。陶器を作る場合に使われる言葉である。陶器師が粘土を使って、自分の思いのままに、一つは美術品を、一つは日用の食器に作り上げる自由を持っているように、神は私たちを思いのままに造られる。私たちは自分の弱さや、もろさを嘆くことよりも、そのような現実の自分を全身全霊で愛して下さっている神の恵みを受け取ることは求められている。

 「神にかたどって人を創造された」とあります。人間は神に似せた造られた、「神の似姿」です。2:7節には「人は地の塵から形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられた、人はこうして生きる者となった」とある。命の息、息とは原語は「ルーハー」霊とも風とも訳することが出来る言葉だ。そしてこの後を見ていきますと、神は人間に語りかけ、人間はそれに応答しています。と言うことは、人間は神と応答することが出来る神の霊を与えられたということになります。神の似姿とは神と応答する「神の霊」を持つ者ということができる。
 応答するということは、呼べば応えるという交わりの能力である。人間は呼んでも応えない物や動物のような被人格的な世界だけでは満足できない。悲しいとき、苦しいとき、側にいて手を握り、悲しみを共有してくれる存在が必要である。
 ※ユダヤ人哲学者のM・ブーバーは人間は二つの関係に生きるもの、と考えた。一つは人間と物の関係で、「我とそれ」、もう一つは人間同士、神と人間の関係で「我と汝(わたしとあなた)」です。「我と汝」は全存在を持って相手に語り、応答するとき、この関係を結ぶことが出来る。
 人間は他の人に物のように扱われたり、管理されたりすることを拒否する。私たちは自分が血の通わない物のように扱われることを極端に嫌う。

 神の呼びかけに応えるのが人間だと言いましたが、この呼びかけに応答することによって、人間は根源的人格性を獲得すると言われる。あたたかい心からの応答をする心を獲得する、ということである。

 神はどのようにして私たちに呼びかけているのでしょうか。
まず、神の方から全身全霊、命がけで呼びかけている。
※イエス様のたとえ話(ルカ15章)
 神の呼びかけの声は谷底の一番底までも、全地に満ちている。それは全身全霊、全存在をかけた命の叫びです。十字架からのイエスの叫びです。その叫びはどんなに離れていても、聞こえる。
  私はあなたを赦すためにすでに命の代価を払っている。
  あなたは私のかけがえのない子供だ。
  わたしはあなたを信じている。
  私のもとにそのままの姿で来なさい。
  私はそのままのあなたを愛している。

 神認識は自然認識、人間認識に優先する。まず神の呼びかけに耳を傾け、神を知ることから全ては始まる。神の全存在をかけた愛の呼びかけに、耳を傾け、私たちもまた全存在を持って応えよう。「我とそれ」ではなく「我と汝」と心から、血の通った言葉で応えよう。神に対して、また人に対してもそのような関わりを持ちたい。まず静まって神の呼びかけに耳をすまそう。