「全ての人に価値がある」 イザヤ書 43章1〜4節

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18;14)
 「わたそはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(エゼキエル18:32)
 「あなたは価高く。貴い。」(イザヤ43:4)  と神は言われる。
 なのに何故、こんなにも多くの人が無惨にも死んでいくのか。このように命が軽んぜられている現状を、神はどう見ておられるのだろうか。
 
 今日の聖書箇所は哀歌とほぼ同時代のものであり、これも救いの希望を歌っている。イザヤ書の40章以下は第二イザヤと呼ばれて、預言者イザヤのものではなくバビロン捕囚の末期に無名の預言者がイザヤを偲んで記したものである、と言われている。当時イスラエルは長年のバビロン捕囚からやがて解放され、エルサレムに戻り、そして神殿再建にとりかかるという、時代が大きく転換する過渡期にあった。

43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう云われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
43:2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。

 神さまはヤコブ=イスラエル、つまり御自分を啓示し、養い導いてきた民族を自分の子供とし、特別に優しい声をかけ、どんなに苦しい中でも守り助けると約束されています。

43:3 わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
 さて、ここが問題の箇所です。ここにはえこひいきと思われることが記されています。イスラエルを救うために他の民族を犠牲にすると言っています。エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする、と。
 かつて、イスラエルの民はエジプトで奴隷とされていた。そのエジプトから脱出するためには、神はモーセを送り、小羊を屠って、その血を鴨居に塗った。血を塗ったイスラエルの家の長子は助かり、塗っていないエジプトの家の長子は殺された。エジプトの王ファラオは自分の長子までも死んだので、ついにイスラエルの民を解放した。イスラエルの民の救いはエジプトの長子の犠牲の上にあった。
 エジプト王ファラオにしたら何故、自分たちが殺されなければならないのか。これは彼らにしたら理不尽なことでした。意すらエレ右派重んじられエジプトは軽んじられた?

これは選びの問題にもなります。
 モーセ(イスラエル)は選ばれ、ファラオ(エジプト)は選ばれなかった。ヤコブは選ばれ、エサウは選ばれなかった。
 そうでしょうか。どちらも神の器として選ばれたのです。ファラオもエサウも神の器として用いられた。彼らはイスラエルを救うために、神の民の代償となったのです。
(ローマ9:13〜17)ここには、神がファラオを立てた、と言っています。そこには大きな目的があった。神の名を全世界に知らせるためである。モーセもファラオも々です。救われたイスラエルも、その代償とされたエジプトも同じように大切な命です。
 神は神の民を救うために他の民を滅ぼすことはされない。なぜなら、全てが神の民だからです。彼らも救われるのです。
ローマ・9:13「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。
9:14では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
9:15神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
9:16ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
9:17聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。


 神が真の、完全な罪の犠牲、身代金とされたのは御子キリストでした。イエス様は真の神の小羊、この方を罪人として十字架につけ屠り、その血によって、神は全ての人を救おうとされたのです。
 小羊の血は神の御子の血を表し、御子の血、すなわち御子の命の犠牲の故に私たちは救い出されるのである。なぜなら、それほど人間は神の前に価高く、貴いからです。

43:4 私のめにはあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。
 これらの言葉からするとイスラエルが特別に愛されているように思えます。他の民族を犠牲にしてでも、イスラエルを救おうとされているようにとれる。
 これは神の秩序である。まず、イスラエルに神の救いの業を現し、次にそれを通して他の国の人々、つまり異邦人に救いが及ぶようにされた。だから、イスラエルの民が特別に愛されているとか、偉いとかいうのではない。わたしたちは皆、神のかたちに創造され、価高く、貴い者である。
 ところがイスラエルは自分たちだけが特別に愛され、偉いと勘違いし、高慢になったので、神はその救いの秩序を逆転したのである。(ローマ11:11〜12、20)
ローマ11:11そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。 11:12しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
11:20まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。

 私たちは時々、自分は何の働きもしていない、価値のない人間だ、と思うかもしれません。それは神の言葉ではありません。神の言葉は「私の目にはあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛している。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」です。
 私たちは自分では気づかなくjても、神にはつちゃんと目的があるのです。又、自分は軽んじられている、神は差別をされていると思うときもあるかもしれません。決してそうではありません。病気も失敗も、貧乏くじを引いているように思っても、神はちゃんと見ていてくださって、帳尻を合わせて下さるのです。
 だから、ヤコブよ、イスラエルよ、と語りかけるこれらの言葉は全て自分に当てられている、と、とってよいのです。

 「神kは実にひとり子をたもう程に、世を、あなたを愛された」(ヨハネ3:16)