「福音は敵を越えて」 使徒言行録8章4〜25節

 敵対関係の根本には人間の欲望、どん欲の問題と、自分を義とする(正当化する、つまり自分は正しい、間違っているのは相手だとする)問題がある。
隣人との関係は長い間の歴史があり、その時の力関係もあり、複雑なものがある。それを越えて真の隣人関係を築くにはどうしたらいいだろうか。
 その第一のことは、自分が神の前に、罪多い愚かな人間であることを知ること。
 第二に、神がそんな者に、御子をさえ惜しまずに与えて下さるほど大きな価値がある、と言って下さることを知ること。一言で言えば、キリストの福音を知ることだと言える。 
 イエス様は自分に敵対し、十字架につけた者たちの赦しを十字架上で祈られた。ステファノも敵を赦しつつ殉教した。キリストの福音は、当時ユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人に、7人の世話役の一人フィリポによって始めて伝えられることとなった。それは、弟子たちの計画や意志ではなく、神の遠大な御計画によるもので、ステファノの殉教が引き金となったのである。使徒1:8「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりででなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」神の不思議な方法でこの御言葉が実現した。

08:04さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
08:05フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
08:06群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
08:07実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。08:08町の人々は大変喜んだ。

 ヨハネ4:9「ユダヤ人はサマリア人とは交際をしないからである。」
その因縁は遙か七百年にさかのぼる。アッシリア帝国が北王国イスラエルを攻め、多くのユダヤ人を捕虜として連れてしまった。残ったサマリア人は入ってきた異民族と結婚して純粋性を失ってしまった。それがサマリア人の先祖。そのようなサマリア人をユダヤ人は軽蔑し、絶対に神の国へは入れない。神の聖霊を受けることも不可能である。と考えていた。
 ところが、そのようなサマリア人の先入観から福音によって解放されていたフィリポはエルサレムからサマリアに下っていき、そこでキリストを伝えた。彼は長い間、敵視し、見下げていたサマリア人の所に聖霊に押し出されるようにしてやってきた。その聖霊の力によって、汚された霊に取り憑かれた人や病気の人を癒し、福音を伝えたら、サマリアの町の人たちはよく聞いてくれ、また大変喜んでくれた。

08:09ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
08:10それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
08:11人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
08:12しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
08:13シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。

 フィリポは聖霊によって敵対感情を越えていたが、サマリアの人はユダヤ人のフィリポの語る言葉を信じるには、これまでの歴史からも大きな抵抗があったのではないか。それと同時に多くのサマリアの人は魔術師、シモンの魔術に捕らわれていた。フィリポはこの二つの壁を取り除かなければならなかった。神はフィリポによって、まず悪霊を追い出し、病気の癒しを行われた。それによって、サマリア人はこぞってフィリポの語る話に聞き入った。彼らは病気の癒しを大いに喜んだのである。
 こう言ったことから未開の地に福音を伝える手段として、医師や看護師さんといった医療に経験を積んだ人を派遣することがある。(医療伝道)

※密林の聖者シュバイツアー  
 シュバイツアーは医療伝道活動を行うにあたって「祈祷師や占い師に一命を委ねる」という因習とも闘わなければなりませんでした。シュバイツアーは後にこう言っている、「私はランバレネで、私の捜していたもの、すなわち、愛と信頼と親切をみつけ、人のために役立つ仕事を見出しました。私はランバレネで働きましたが、人はそれぞれ自分の心のランバレネがあります。一人ひとりがその自分の心のランバレネで働けばよいのです。」※心のサマリア

08:14エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
08:15二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
08:16人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
08:17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 サマリアで福音を宣べ伝えられ、多くの人がそれを信じてバプテスマを受けた。そこのことをエルサレムに残っていた信徒たちが聞いて、それを確かめにペトロとヨハネを遣わした。彼らには信じられないことだった。
 ここには一つの難しい神学的な問題がある。サマリアの人々はイエスをキリストとして信じ、主イエスの名によってバプテスマを受けた。それにもかかわらず、彼らの上に聖霊が降っていなかった、ことだ。これは使徒2:38、ペトロが言った言葉「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」と矛盾するではないか、という問題だ。
1.これは例外であって、神はこの時だけ聖霊が降るのを一時延長した。なぜなら、ペトロやヨハネが来て、祈り、手をおくことで聖霊が降ることで、確かにサマリア人にも聖霊が降り、ユダヤ人とは区別がないのだということを明らかにしようとした。

2.サマリヤ人はイエスの名によってバプテスマを受けたときに、確かに賜物として聖霊を受けていた。ただ、ペンテコステのような大きな音や異様な光景、異言などのしるしたなかった。サマリア人へは、聖霊がそのような形で降っていなかったが、静かに確かに聖霊は与えられていた。ペトロやヨハネが祈って、手を置いたときがそれが見える形で分かるように現れた。あたかもあぶり出しで字が見えるように、見えなかったが確かにに存在していた。

 この後、小山正芳君はイエスの名によってバプテスマを受ける。
 使徒2:38ペトロが言った賜物として聖霊を受けるという言葉は確かな神の約束の言葉です。また、神はイエスを信じてその名によってバプテスマを受ける者に、イエス様と同じように「これは私の愛す子、私の心に適うものである。」と言って下さる。この者を聖霊は、敵をも愛する神の子として養い育てて下さるのです。
使徒02:38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

08:18シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、
08:19言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
08:20すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
08:21お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。
08:22この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
08:23お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
08:24シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
08:25このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。