『サウロの回心』 使徒言行録9章1〜19a節

 今日のテーマは「サウロの回心」で「回、まわる」という字を使いました。普通は心を改めることを「改心」と書きます。しかし、「回心」は教会で使うとき、根本的な心の変化、ぐるっと180度反転して反対に向きを変える、という意味を込めて使います。つまり、私たちがキリストへの信仰を言い表すとき、根本的に神の方に向きを変えるということから「回心」という言葉を使うのです。
 ここでサウルに起こったことは、まさに劇的な180度の方向転換、回心であった。劇的回心は急に起こったのではない。ここに至るまで、様々な備えが必要だった。

 回心への備え
1.この時までのサウロ (参照:使徒22:3〜サウロの証しより 22:03「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。 22:04わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。 22:05このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」 22:06「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 22:07わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 22:08『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 22:09一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 22:10『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 22:11わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 22:12ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 22:13この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。 22:14アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 22:15あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。)
 @出生:キリキア州タルソ(地中海沿岸の現トルコ領)生まれのユダヤ人で、両親はローマの市民権を持ったファリサイ派の生粋のユダヤ人(使徒 23:06パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」、フィリピ3:5〜、03:05わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 03:06熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 03:07しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 03:08そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 03:09キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。)であった。この町は当時、アテネ、アレキサンドリアに並ぶギリシャ学問の中心地であり、サウロは幼い時からこの町で高いギリシャ語教育を受けていた。ギリシャ人の習慣、風俗の知識を得た。このことは後になって、ギリシャ世界に福音を伝えるために大いに役立った。彼は生粋のユダヤ人であり、深くモーセの律法を学び、さらには青年期はエルサレムに遊学し、律法に最も厳格なファイ祭派のガマリエルという偉い学者のお膝元で、律法を熱心に学んだ。
 ガラテヤ1:14また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
 彼は何事に於いても徹底して取り組む人だった。
 
 Aその後、サウロはファリサイ派の若手議員のリーダー格としてユダヤ人議会でも頭角を現し、皆に知られる存在となっていた(約30歳の時)。
 Bサウロはステファノ死刑の急先鋒として刑を取り仕切った。

2,サウロの心の中
 このような教会への迫害を通して、聡明で一途なサウロが何も感じないはずがなかった。特に石打の刑の際して、ステファノが叫んだ言葉「天が開けてそこにイエスが立っておられるのが見える。主よ彼らにこの罪を負わせないで下さい。」また、その死の間際の光景、天を仰ぐステファノの輝く顔は彼のまぶたの裏に焼き付いていたであろう。
 また、自分の律法の師匠ガマリエルの言葉「もし、彼らの計画や行動が人間から出たものならば、自滅するであろう。しかし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」も心のどこかで不協和音を生じていたであろう。
 これら以上に、サウロを苦しめていたことは、律法を人一倍熱心に行い、徹底的に従っていこうとしてきたが、そうすればするほど、従い得ない自分を見いだし、激しいジレンマにさいなまれていたことであった。

 ※ローマの信徒への手紙7:7〜以下そのことを次のように告白している
07:07では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
 ※律法がなかったなら、それらは人間として自然なこととして罪の意識なかった、ということである。
 律法はそれを追求すればするほど、徹底的にその行いを求める。そこにサウロはその要求に従い得ない自分を見いだしていたのだ。
07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

 サウロの慟哭:アアー、私は何という惨めな人間なのだろうか。

 このような生い立ちと内面の経過を経て、サウロはダマスコ(シリアの首都、現ダマスカス)に向かって歩いていたのである。エルサレムから北へ200キロ以上離れていた。(田辺から京都、徒歩で一週間ほど)そんな遠いところまで徹底した迫害を断行し、教会を根絶やしにしようとしていた。(サウロにとっては何度も歩いた故郷タルソへの道であった。)
使徒:09:01さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
09:02ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 この町にはユダヤ人が沢山いて、会堂も複数あった。エルサレムから迫害によって逃げてきた人たちや、会堂に集う人たちの中にイエスを信じる者もあった。
使徒:09:03ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
09:04サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
09:05「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
09:06起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
09:07同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
09:08サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
09:09サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 こともあろうに、天からの声はイエス御自身だった。これにはさすがのサウロも反論のしようがなかった。今までのすべてが
ガラガラと音を立てて崩れていくような、全身の力だけ抜けてへたり込むしかなかった。
 神はサウロのこれまでの生涯を導き、回心への備えをなし、機が熟した丁度この時、天から呼びかけられたのだ。後にパウロはこう告白している。
ガラテヤ1:15わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 01:16御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず・・・」

使徒:09:10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 09:11すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 09:12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 09:13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 09:14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 09:15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 09:16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 09:17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 09:18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 09:19食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
 アナニヤが主の言葉に従ってサウロの上に手を置いて、祈ったとき、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、再び見えるようになった。サウロははっきりと分かった。もうためらうことはない、ナザレのイエスこそ神の子、メシアである。サウロはただちにイエスの名によってバプテスマを受けたのである。

 サウロの回心、180度の方向転換、回心はこのようにして起こったのである。そこには生まれたときから神の御計画と召しがあった。サウロはタルソでギリシャの風俗と習慣の中で高度な教育を受け、生粋の名門ユダヤ人、しかもファリサイ派の両親の元でユダヤ人の習慣を身につけ、さらにガマリエルの元で律法を熱心に学んだ。これらがすべて福音の理解と、ギリシャ世界の人々への福音を伝える為に役立ち、生かされたのであった。
 
 私たちもまたそれそれの生い立ちがあり、育った環境があり、そこから得た様々な体験、形づくられた性格など独自のものがある。そういった備えの中から主に召し出され、回心したのである。それまで過去の体験は何一つ無駄なものはない。それらは福音の理解と福音と他の者に仕える為に生かされ、用いられるのである。その人でなければできないものがある。
 サウロは異邦人の為、ステファノ、アナニアはサウロの回心の為に神に召し出された。私たちは主召し出され、いま生かされています。私たちは誰かの為にいるのです。主は私たちの何を、誰のために用いようとされてるのでしょうか。だとえ今、何の為、誰の為か分からなくても、主は明確な意図を持って私たち一人一人を召し出されているのです。