「イエスの誕生」 ルカによる福音書2章1〜7節
 
 偽善者のタイミング(支配者のため)
 そんな年の瀬、先週は衆議院議員の選挙の投票日でした。私は選挙が突然決まったように感じた。何故、このタイミングなのと、思ったのです。世の権力者は自分の都合に合わせて、選挙の日程を決めます。国民の都合などお構いなしです。莫大なお金をかけて、自分たちの権力争いの道具にしています。若者だけでなく私たちの中にも無関心、退廃的なムードが漂っています。
 神の御子は、そのようなこの世の、ただ中に来られた。今から、二千年前の世界でしたが、今以上に、富と権力の渦巻く世界でした。小さきもの、弱き者が顧みられない世の中でした。
 それはローマ帝国が地中海世界を支配して、その権力を不動なものとし、絶対的な力を持って、世界を支配した時でした。その中心に初代ローマ皇帝アウグストゥスが君臨していた。彼等の目的は富と権力と享楽でした。民を、まして弱い者を顧みることが無かった。

 神のタイミング(人を救うため)
2:1そのころ、皇帝アウグストゥス(在位:BC27〜14)から全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 

2:2.これは、キリニウス(在位:BC4〜AD4)がシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。  「そのころ」というのはマリアが(天使から、あなたは身ごもっていと高き方の子を産む、という受胎告知を聞き、その言葉通り)すでに産み月になっていた頃、というときです。
 著者ルカは御子の誕生の時代を支配者の名前を具体的に挙げて記しています。この勅令は強大な権力を持っていた皇帝から出された勅令なので、嫌でも従わなくてはならなかった。
 ところがこの勅令が神の御心を実現することとなったとは誰も分からなかった。ルカは「そのころ」という言葉で、神の絶妙なタイミングによる介入を現している。これによってマリアは今住んでいるナザレではなくベツレヘムで、しかも家畜小屋でお産をすることになったのです。これが罪の闇にもがく人類の救いとなるためだったのです。

3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ここまでルカは淡々とアナウンサーが述べるように事実だけを簡潔にしるしている。サーッと読めばスーッと通り過ぎていってしまう。しかし、マリアの体、ナザレからベツレヘムまでの距離などのことを、もし自分がヨセフなら、マリアならどうだろうかと考えて読むと面白い。
 例えば、私が臨月の妻を連れて、本籍がある岡山の津山まで帰るとなると、医者は止めるだろう。私ならよほどのことがない限り連れて行かないだろう、というように。
 ヨセフがマリアを連れて行くと決めたのには、勅令もさることながら、他によほどのことがあったからだろう。ナザレの人々は、あれは不倫の子を宿している、と。それはマリアを中傷から守ろうとするヨセフの思いやりであった。しかし、それは大きな危険を伴うカケでもあった。
 ヨセフとマリアの長旅(直線で120q、徒歩で4.5日、いやマリアの体を考えるともっとかかった)を思うとどれだけ大変であったか。誰か助けてくれる人もいなかったのか。親や兄弟、親戚も一緒に登録に行かなかったのか。どうもそういう人はいなかったようだ。本当に心細い、孤独な旅であったであろう。
 ※私たちも孤独になります。自分のことを知ってくれる人、聞いてくれる人が一人でもると慰められます。その中でも信仰を共にする友の存在は大きい。
 でも、苦しい旅路が何日も続くと、お互いに不満も出たでしょう。マリアは歩いたのか、あるいはロバに乗ったのか。途中の宿は。また、旅には多くのお金がかかったであろう。このようなことを色々と想像すると面白い。

6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋
(単数形:客間)には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 調べてみると宿屋は単数形で、あちこちの宿屋ではなく、客間はお産を間近に控えた妊婦を泊める事はできないという意味であろう。つまり、客間にいた時に産気づき、宿の主人に客間から追い出されて家畜小屋にいったか、宿屋に行ったとき産気づき、客間ではなく家畜小屋に案内されたかです。
 ヨセフはダビデの血筋、ダビデの町と呼ばれるベツレヘムにはその血筋の者が沢山いたであろう。イスラエルの民は12部族いて、出エジプト以後、それぞれに土地を分け与えられていた。ダビデの血筋の者はユダ族だから殆どの人がダビデの町のベツレヘムに住んだ。それでも、ヨセフのようにガリラヤに移住した者もいた。
 両親や、兄弟や、親戚、彼らがベツレヘムにいたのなら、宿屋というより彼らの家に泊めてもらうことはできなかったのだろうか。
 それとも、身重の妻、しかもお腹の赤ちゃんは不倫での子で、ヨセフの子ではないらしい、との噂が立っていて、彼らさえも関わりたくなかったのだろうか。

 宿屋には彼らの泊まる場所がなかった、とは悲惨なことです。それにしても、たとえ噂が広まっていたとしても、今にも生まれそうな妊婦を誰も顧みることをいなかった、とは何という世の中でしょうか。そのような中に神の御子は来たのです。

 神が、御子を、皇帝をも動かして、ベツレヘムの家畜小屋で生まれさせ、飼い葉桶の中に寝かせてということは、神の絶妙なタイミング、御自身の名誉や、利益のためではなく、全人類の救いのため、祝福のためでした。罪の暗闇から真の光へと導くためのものでした。