「神の恵みは誰に与えられたか」 ルカによる福音書1章26〜38節
   (アドベント)

 「テニスコートの出会い」と言えば、年配の人にはすぐにピンと来るのではないか。昭和32年8月、当時皇太子であった現天皇と正田美智子さんが軽井沢のテニスコートで出会い、そして、その約一年後、皇室会議において二人の結婚が満場一致で可決された。皇室勅使か正田家に遣わされ。その胸を伝え、翌昭和34年4月10日、正田美智子さんは民間人として初めて皇太子と結婚し、皇室に入った。今から55年前、美智子さんが25歳の時であった。

 当時、皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であり、誰も美智子さんをお妃候補とは思わなかった。ところが皇太子の意向もあってか、一般の美智子さんに白羽の矢が立ったのであった。

 白羽の矢が立ったと言えば、今から約2千年前、一般人も一般人、貧しいおとめマリアの所に天使が神から遣わされ、驚くべき知らせを告げたのである。
ルカによる福音書
01:26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
01:27
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。01:28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
01:28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 
01:29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
 ガリラヤ地方は神の恵みの光が届かない、暗黒の地、神から見捨てられたところと考えられていた。ですから、マリアにとっては青天の霹靂というか、全く信じられない、予期せぬ突然の天使の訪問であった。
 この時から700年ほど前にイスラエルはアッシリア帝国によって攻撃され、ガリラヤ地方のユダヤ人が多く捕虜として連れて行かれた(列王記下15:29イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。)。その後、そこに異邦人が入り込んできて共に住んだ。だから他のユダヤ人からすればガリラヤは異邦人の地であり、そこに住んでいる者は暗闇の中に住んでいる人々とみられていた。
 イザヤ書8章23節にはガリラヤについてこう記されている。
「先にゼブルン、ナフタリ(ガリラヤ)の地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道に、ヨルダンの彼方、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
09:1暗闇の中に住む民は大いなる光を見・・・・」

 マリアはそんなガリラヤ地方のナザレ村に住んでいた。このナザレについては「ナザレからは何の良い者も出ない」とまで言われていた。
 そんなところに神からの使者、天使の御使いが来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言ったのです。マリアは戸惑った。
 マリアには神から恵みを頂けるようなものは、何もなかった。だからマリアにとっては、御使いの訪問を受け、神からの祝福を受けたことは、自分の何ものでもなく、全くの恵みという他はなかった。
 この点からするとマリアは私たちと変わりがなかった。マリアは神から恵みを頂いた先駆けとして、私たちの先頭に立っているのである。

01:30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
01:31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

01:32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる
01:33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
01:34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
01:35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
01:36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。01:37神にできないことは何一つない。」
01:38アは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


 「あなたは神から恵みを頂いた。主があなたあと共におられる
 「あなたは身ごもって男の子を産む。その子はイエス、神の御子、神の国の王座に着く方、永遠の王」」
マリア「まだ結婚もしていないのに子どもを産むなど考えられません。」
 「聖霊があなたに降り、全能の神、命の主の力に包まれる。その時、新しし命が宿る」
 バプテスマと同じである。私たちが新しい命(復活の命、キリストの命)に生きる者とされる。
 「お言葉通りにこの身になりますよに!」   マリアは主の言葉を信じた。」

 私たちはマリアである。
@神の預言、約束はまず暗黒の地に光が臨むということであった。私たちは暗闇の地ガリラヤである。そこに住むマリアである。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」これは私たちに語りかけられている神の言葉である。
Aマリアは神の恵みを受けた最初の人、その先頭の人であった。私たちは皆マリアである。私たちも恵みによって、信仰によって御子を与えられ、宿す者となるのである。
B私たちが神から愛され、恵みを受けるのは、それに値する何かをしたからとか、持っているとか、持っていないからと、いうのではなく、ただ神の一方的な恵みである。それはマリアと共に信仰によってのみ頂くことができるものである。

 マリアと共に言いましょう。「お言葉通りこの身になりますように!」