『あなたのなめに祈った』 ルカによる福音書22章31〜34節

 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
 浅野内匠頭は赤穂の城主、家来が仇討ちをして有名になった忠臣蔵の主君です。元禄14年3月14日(1701年4月21日)の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上介義央(ヨシヒサ)に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹(33歳)、赤穂浅野家はお家断絶と決まった。

 イエスさまが大祭司、律法学者などの陰謀によって十字架にかけられ殺されたのが、過ぎ越の祭りの時、日本でいえば丁度桜の咲く時期でした。その時、イエスの弟子たちは皆、弱さの故に裏切り逃げ去ったのです。主君のために仇討ちを遂げ、切腹した赤穂浪士とはちがいました。しかし、その後、弟子たちは聖霊によって新たにされ、主の教えに従い、剣を取らず、信仰によって敵をも赦す道を選び取りました。

 今年もイエスさまの十字架の死と復活を記念するイースターの時期となりました。今日はイースターから2週間前です。今週と来週はイエスさまの十字架の受難、苦難を御一緒に偲びたいと思いこの聖書の箇所を選びました。死を直前にして、イエスさまは何をされ、何を語られたのか、その一部を見ていきましょう。
 先ほどルカ22章31〜34節を読んで頂きましたが、その前の20節から30節を読んでみます。
22:20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
22:21しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。
22:22人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。
22:23弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
22:24それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

 イエスさまは過ぎ越の食事を弟子たちを取ることを切望された。ここには過ぎ越の食事を弟子たちと終えた後、何と食事を共にした弟子たちの中に自分を裏切る者がいることを告げている。弟子たちは、信じられない思いで、いったい誰がそのような裏切りをしようとしているのか、お互いに議論した。又、そのような中で自分たちの中で、誰が一番偉いかという議論も起こった、と記されている。
 イエスさまが弟子たちに心血を注いで訓育してきた今日までの3年間は何だったのか。失望を通り越して、怒りさえ覚えるような、いや怒ることも萎えるような弟子たちの無様な姿です。しかし、イエスさまはそのような弟子たちを諦めることなく、その愚かさ、弱さをそのまま受け止め、この機に及んで、もう一度仕える者の姿を身を以て示された(ヨハネ13章)
 そして、これまでイエスさまが様々な試練にも、弟子たちは共に踏みとどまり、従ってくれたことに言及し、神の国の権限をゆだねるという約束をし、最高の評価を与えている。

 続いて、31節からはその弟子たちの長男各のシモン・ペテロに対して個人的に告げている。
22:31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神は願って聞き入れられた。
22:32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないようにと祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう。」

※篩にかける:一定の基準で、悪い物を取り除いて良い物を選び出すこと
例)小麦をふるう、砂をふるい落として貝を拾う、面接でふるい落とす・・・・。

 サタンが弟子たちを篩にかけるとは激しい試練の中に投げ込むということでしょう。これは旧約の(ヨブ記1章P775)ヨブに対してサタンが神に願ったこととよく似ています。神は制限付きでサタンの願いを聞き入れられた、とある。何故、神はサタンの願いをも聞き入れられるのか、詳細は分からない。ただ、サタンは神の許し無くば、試みることは出来ない。サタンは神と同等な者ではない事は確かである。そして全ては、サタンさえも、神の御手の中にある。だから、私たちは主の祈り「試みに会わせず、悪より救い出し給え」と祈ることができる。
 神はこうも言われている。
ゼカリヤ書13::7〜9
 「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよ(マタイ26:31にも引用)。私は、手を返して小さい者を撃つ。・・・・・銀を精錬するように精錬し金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは答え、『彼こそわたしの民』と言い、彼は『主こそわたしの神』と答えるであろう。」
 最終的な目的は真実な愛の交わり、絆である。

 弱さ、愚かさ、自分への過信、主への不信に気づかない弟子をサタンの試みにさえまかせ、厳しい試練の中に追いやることが出来るのは、神の愛の力であり、祈り以外にありません。
 イエスさまはこの場に及んで、自分のためにではなく、これから試練の中に投げ込まれようとしている弟子のために、その命が守られるようにではなく、信仰が無くならないように祈ったのです。このすぐ後、何時間もしないうちにペトロは大祭司の庭で3度知らないと、主を否んだ。その時、鶏が鳴いた。ペトロは振り向かれた主のまなざしを見て、主の御言葉を思い出した。あなたのために祈った、あなたの全ての罪過ちを御自分の身に受け、赦すために十字架につかれる主の思いを知ってか、ペトロは外に出て激しく泣いた。

 この御言葉はペトロだけではありません。様々な試練、重荷を負っている私たち一人一人のためにも当てはまるのです。いつもこの御言葉と主のまなざしを忘れないでいましょう。そしてまた、わたしたちもわが子に対して、家族に対して、兄弟姉妹に対して、苦難の中にある人に対して、他者のために祈る者とされましょう

 だれがわたしたちを罪に定めることが出来ましょう。死んで下さった方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)