『教会の転機と序章』 使徒言行録6章1〜7章

 私達には人生の転機という時があります。それは人との出会いや別れであったり、挫折や大病であったりします。それは運命ではなく、神の愛です。神がそれら全てを支配し、導いておられるのです。なぜなら、神はこの世を、私達一人一人を独り子を賜うほどに愛して、救おうと導いて下さっているからです。これは万物の創造の時から今に至るまで、そして世の終わりまで変わることはありません。
 今日のところは教会の転機の始まりを予感させるところです。7人の世話役が選ばれ、その中でもステファノとフィリピ、彼らによって教会は大きな転機を迎えることとなるのです。今日の箇所はその序章です。

06:01そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
 ギリシャ語を話すユダヤ人=(原語) ヘレニスト=ヘブライ語やアラム語を話せず、ギリシャ語だけしか話せないユダヤ人。
 外地にいたユダヤ人も年に一回か、何年に一回か過ぎ越の祭りや五旬祭にはエルサレム神殿に礼拝に集まっていた(使徒2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 :10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者・・・・)そのような外地に住んでいたユダヤ人がギリシャ語を話すユダヤ人であった。パウロもそうであった。彼らが五旬祭以降、教会の新しいメンバーとなっていったのである。
 当時はローマ帝国が世界を支配し、ギリシャ語が共通語であった。しかし、地のユダヤ人はヘブライ語(アラム語)を話した。そのような中で問題が発生した。人数が爆発的に増え、雑多な人々がいる中で、十分配慮できなくなったのか、それとも、出身地差別があったのか、外地から来たユダヤ人のやもめが軽んじられている、という苦情が出た。
 「問題」は外から来るものと、内ちから来るものとがある。根っこは同じであって、人間の罪の問題である。高慢、差別、ねたみ、恨み、どん欲、自己中心、愛の不足などである。この世にいる限り、内外から問題が起こることは避けられない。それをどのように解決してゆくかが問われるのである。

06:02そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。06:03それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。06:04わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 
 この苦情に対して、ペトロをはじめ12使徒はどうしたか。自分たちで直接的に対処しなかった。彼らは霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選ぶことにした。この人はたちにその問題を対処するように、その仕事を任せた。
 ※「霊」というのは聖霊、神の霊のことです。神の霊に満ちた人、すなわち神を真心から信じ、その喜びと感謝と力に満ちている人。
(黒崎氏) [選任の方法、及び標準はきわめて適正であった。教会は必要に応じて必要な手段をとる事を聖霊によって示される。「御霊に満つる事」なしに神のことを正しく行うことが出来ない。「知恵」なしに複雑な人事を賢明に処置する事が出来ない。「評判の良い事」なしに多くの人の上に立つことは出来ない。また使徒自ら指名しないで、選任したことは専制的処置を避けた正しい態度であった。]

 この7人は食事の世話だけに任じられたのではない。この後のステファノの働きを見てみると、彼は使徒たちと同じように堂々と御言葉を宣べ伝えている。フィリポにおいても、8章ではサマリアの人々やエチオピア人に福音を伝えている。ですから、これは後の執事とか長老とか呼ばれるものではなく、この時の問題に対応できる御霊と知恵に満ちた人であって、この問題だけでなく、異邦人への伝道のために選ばれたのであった。神さまは異邦人伝道に焦点を置いていたのである。

06:05一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
06:06使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
06:07こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 なんとここに選ばれた7人は全部ギリシャ名である。7人の内多くは外地から来た離散のユダヤ人であったであろう。またこの7人はギリシャ語も、ヘブライ語(アラム語)も両方自由に話せる人達であった、と思われる。だから、言葉からしてもこのような苦情を、中に入って処理するにはうってつけの人達であった。またギリシャ語を話す異邦人への伝道も言葉において問題はなかった。彼らを選んだ初代教会はそういう意味でも、聖霊による洞察力を得た、将来を見据えた選任であったと言える。

 「祈って彼らの上に手を置いた」
 これは何を意味するのでしょうか。現在、多くの教会?が牧師を任命するとき、先輩の牧師が頭に手を置いて祈る事をしている。これを「安手」と言う。この箇所は安手礼のこのと言っているのだろうか。
1.祝福を与える、創世記48::13ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。 48:14イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。

2.自己の罪を牛とか山羊の上に移す。レビ記 01:04手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。  03:02奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。   04:04まず牛を臨在の幕屋の入り口に引いて行き、主の御前に立ち、その頭に手を置き、主の御前で牛を屠る。   16:21アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。

3.後継者を任命する民数記27:03「わたしたちの父は荒れ野で死にましたが、主に逆らって集まった仲間、あのコラの仲間に加わりませんでした。彼は自分の罪のゆえに死に、男の子はありませんでした。
※使徒13:3アンテオキアの教会で、パウロとバルナバの上に手を置いて伝道に送り出した。「彼らは断食をして祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」
 私達の教会は基本的には式と名がつくものは聖餐式とバプテスマであるが、新しい出発など、大きな区切りとして、手を置いて祈って送り出す事は意味深いことである。
 初代教会は一つの問題を解決するために、ふさわしい新しいリーダーを選任し、聖霊の導きによって、新たなステップへと進んでいった。殻を破って出て行く準備を整えていった。初代教会を守り導かれた神は、今も教会を、私達の生活を、日々の歩みを、導き、新たなステップへと進ませるために、殻を破ろうとしておられる。私達も主の導きの中で、新たなステップへと進んでいこうではありませんか。