「上を向いて歩こう」 詩編23編

 51年前、1963年、坂本九の『上を向いて歩こう』が大ヒットした。
「上を向いて 歩こう 涙がこぼれないように 思い出す 春の日 ひとりぽっちの夜
  幸せは雲の上に 幸せは空のうえに 上を向いて歩こう」

 歌詞は、涙を流すほどの悲しみの中で、ひとりぽっちの孤独な夜に、幸せはきっと雲の彼方にあるから、上を向いてあるこう!
 つまり、悲しみに、孤独に負けないで希望を持って生きていこう、というところに多くの人が共感を覚えたのだろう。アメリカでは歌詞とは全く関係のない「すきやき」という題がつけられた。それもヒットしたのはメロディの軽快さと坂本九の明るさが大きかったのか。
 51年前のこの年はアメリカとソビエト、東西の冷戦状態が続いて不安定なときであり、11月22日ケネディ大統領がダラスで暗殺された年でもあった。
 50年後の現在は、イラクには過激派「イスラム国」、シリア、ウクライナ、北朝鮮、中国、世界は不安定要素に満ちている。日本は、世界はどうなっていくのだろうか、将来の不安を覚える。

開運商法
 そのような不安な中で、悪徳業者が幅をきかせている。その一つに開運商法がある。「身に付けるだけで運気が上がる」「幸福になる」「能力がアップする」などと宣伝して高額な開運グッズ(印鑑など)を買わせる商法。 雑誌広告で「運気が上がる」とうたうブレスレットなどを申し込むと、高額な祈祷料などを払わされる被害が深刻化している。
 開運グッズを購入するために一度お金を支払うと、「悪い霊がついている」などといたずらに不安をあおったりして、祈祷料と称して高額なお金を請求してくる。被害者の約8割は女性である。私たちは、そんなバカな、だまされる方が悪いなどと思うが、巧妙に人の不安につけ込んでくるのである。次第に抜けるに抜けれない状況に追い込まれていくのだ。

「八方ふさがり」ということわざがある
 元々、陰陽道(おんみょうどう)からきた言葉で、八方とは東・西・南・北と北東・北西・南東・南西(四隅)の八つの方角。つまり、どの方角に向かって行っても不吉な結果が予想されること。
これから、一般に使われる意味は、、どの方面にも支障があって手の打ちようがなく、動きが取れないこと。何をしてもダメ、なにもかもうまうく行かないこと。


 私達はそのような八方ふさがりの状態に陥ったとき、どうするだろうか。まず、自分を責める。自分が蒔いた種だとか、あれが悪かった、このことが悪かったのではないか、あれこれと悪かった点をほじくり出して後悔する。また人を責める。それで悩み苦しんで、ため息をつきつつ、いつのまにか下を向いてとぼとぼ歩く。そんな絶望状態の時、私達はどうするだろうか。やけっぱちになって諦めるか。最後まで諦めずに、何とかしようと頑張るか。いずれにしても、そのような中で目を天に向ける者は幸いである。「幸いなるかな、貧しい者。天国は彼らの者である。」
 たとえ八方がふさがっていても、ただ一つあいているところがある。それが天だ。坂本九さんが歌っていたように、上を向いて空に、天に顔を向けよう。八方ふさがっていても天は常にあいている。

 脱出の満ち ※星野富弘さん
[私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の頃だったろう。ガキ大将につれられて、いつものように渡良瀬川に泳ぎに行った。・・・気づいた時には速い流れに流されていたのである。元いた岸の所に戻ろうとしたが、流れはまずます急になるばかり、私は、必死になって手足をバタつかせ、元の所に戻ろうと暴れた。しかし、川は恐ろしい速さで私を引き込み、助けを呼ぼうとして何杯も水を飲んだ。
 「・・・・そうだ、なにもあそこに戻らなくてもいいんじゃないか」私は体の向きを百八十度変え、今度は下流に向かって泳ぎはじめた。すると、あんなに早かった流れも、私を飲み込むほど高かった波も静まり、毎日眺めている渡良瀬川にもとってしまったのである。
  怪我をして全く動けないまま、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと、激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして、思った。
 「何も、あそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」
 なにげなく読みすごしていた聖書の一節が心にひびきわたった。

 「あなたがたの合った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実なかたですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)]

自分を見るな、主を見上げよ
 詩編23編、この作者は重い苦難に悩み、激しい敵の手に苦しめられ、八方ふさがりの経験の持ち主であったと思われる。しかし、彼はそのことについては一切述べていない。
詩編
23:01【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:02主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い
23:03魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
23:04死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。
23:05わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。
23:06命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。


 2ヶ月くらい前、一人で早朝散歩に出かけた時のことです。その頃、私は落ち込んでしまい、自分を責め、マイナス思考に捕らわれていた。八方ふさがりのようになっていた。足取りも重く、うつむき加減で歩いていた。その時も習慣のように詩篇23編を口ずさんでいた。「主は私の牧者であって私には乏しいことがない・・・・。」
 「私には乏しいことがない」その時、ハッと気づきました。自分が言っていることと、やっていることの矛盾に。私は今、自分の乏しいこと、不足ばかりを言って、その虜になっているではないか。何故、自分ばかり見るのか。何故、自分のヘソばかり見ているのか。
 自分を見れば、自分が欠点だらけで、不十分なのは当然ではないか。主はそんな弱いあなたをそのまま受け入れて下さった牧者ではないか。主はあなたの不足も、弱さも、すべてを知って、ちゃんとその必要満たして下さる方ではないか。主を信ぜよ。顔を上げよ。上を向いて歩こう。









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