『教会の新しい局面へ』 使徒言行録6章8〜15節

 使徒言行録6章からは、これまで育てられた福音の苗代の苗がついに田んぼにうつされえる、まさにその新しい局面を迎えているところである。
 今から2千年前の新約聖書の時代ではローマ帝国中にユダヤ人が散らばっていた。彼らはヘブライ語を話せない外地のユダヤ人であり、ヘレニストと呼ばれていました。聖霊降臨があった五旬祭(ペンテコステ)の時以来、多くの外地のユダヤ人がイエスをキリストと告白し、教会の仲間に加わりました。そして、12使徒を中心とした内地のヘブライ語を話すユダヤ人と共同生活をしていた。そのヘレニストから配給の分配で苦情が出たことをきっかけに、彼らの中から礼と知恵に満ちた評判の良い7人の指導者が選ばれた。この7人もヘレニストで、その中にステファノとフィリポがいた。彼らが教会の新しい局面への突破口とされていった。
 ※ナザレのイエスを神の子キリストと信じるということはどういうことか。そのまま受け止めたらどうなるのか。
 ユダヤ人の、神が選ばれた清い民族という信仰jも、神はイスラエルだけを救うもので、汚れた異邦人が救われるはずはない、という信念も崩れてしまう。これまで千年余り律法(レビ記)に従って、神殿で犠牲の動物を捧げてきた。それが必要なくなる、神殿もいらなくなる、

06:08さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
 ステファノは恵みと力に満ち、使徒たちと同じように不思議な業としるしを行っていた。これは生まれづき足の不自由な男をいやしたペトロにも使われていた言葉であるが、病気の癒しのことであろう。彼もまた、ナザレのイエス・キリストの名によっていやし、また教えていた。このイエスに、よる以外に救いはない、この方こそ十字架につけられたが復活したキリストである、ことを力強く証した。

06:09ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 06:10しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
 キレネは北アフリカ、現在のリビア地方の町、アレクサンドリアはエジプトの大都市(2/5がユダヤ人)、「解放された奴隷の会堂」とはリベルテンと呼ばれ、ユダヤの兵隊がローマの捕虜となり、釈放され集まっていた会堂、キリキア州はパウロの出身地、アジア州の二つは現在のトルコ。
 ステファノは知恵と霊に満ちていたので、ヘレニストたちは太刀打ちできなかった。ステファノは自分が受けた福音を確信を持って彼らに伝えた。しかし、彼らは議論にまかされたことで、その憤りから卑劣な手段を執った。

06:11そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 06:12また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 06:13そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 06:14わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
 [告訴の理由]
 モーセと神を汚した。聖なる場所(神殿)と律法をけなした。この場所(神殿)を破壊して、モーセが伝えた慣習を変える。
 神殿を侮辱し、そこで行われる礼拝の絶対性を否定する罪。

 ステファノの問いかけ
 神殿の聖所で行われるユダヤ人だけの民俗宗教は意味を失ったのではないか。もし、人間の罪が、神の前に義とされるという最大の問題で、ナザレのイエスがメシアであり、そのメシアが死なれたのが、その罪の贖いであったとすれば、神殿で行われる犠牲の動物の血は意味を失うことになる。
 今までのように神の掟を必死で守って清くなろうとすることは、限界がある。人間は(旧約)聖書の言葉(律法)を守ることによって、救われるのではなく、自分の罪と行き詰まりを知るだけである。救いはキリストを信じる信仰にある。
◎神が遣わされたキリストは、自分に何をして下さったかを知ることではないか。
ローマ 03:20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 03:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 イエス様は十字架で肉を裂き、血を流し、罪に死んでいた私たちが罪から解放し、新しい命に生かすために、代わりに死んで下さった。そして、三日目に復活して下さった。死ぬべき者が恵みによって神の命に生かされるのである。

06:15最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
 周りの人たち、悪意を持って訴える人々や、彼らに先導された民衆、長老、律法学者たちを見ないで、また自分をも見ないで、天と神の栄光を見ていた。「主は私の牧者であって、私には乏しいことはない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われる。」(詩編23編1.2編)
 
 神殿とは何か。インマヌエルなるキリストではないか。
 「2、3人、主の名によって集まるところに私も共にいる。」
 キリストの名によって集まり、御言葉を学び、祈り、礼拝するところが神殿である。
 神の喜ばれる礼拝とは何か。
 形通りに行われる惰性的な、習慣的な礼拝ではない。礼拝が富や見栄や打算的なものであってはならない。
 ☆ヨハネ4:23「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない。」
 ☆詩編51編18、19編 51:18もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。
51:19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。