「聖霊に導かれて」 使徒言行録9章31〜43節

使徒
01:08あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 神さまは様々な方法で御自分を現され(啓示し)てきた。
@ 天地万物・・・自然界の全てを通して。
A 預言者・・・・・・アブラハム、モーセ、ダビデ、エリア、イザヤなどの預言者によって。
B イエス・キリスト・・・神の御子が人となって、世に来たナザレのイエスによって。
C 聖霊(信仰者を通して)・・・御子キリストを信じる者に神の霊(御子の霊)聖霊を与え、信仰者を通して。
D 聖書を通して。
 現代ではCDによって神は御子自身を現される。つまり、先にキリストを信じた人によって、御言葉が伝えられるのである。
 使徒言行録はキリストを信じた者の内に聖霊として宿り、その人を神の子として守り、養い、育て、導き、祝福を与えられるのである。それは他の人にも神を伝えるためである。これが神の御心である。
 神はユダヤ人だけの神ではなく、全世界の人の神である。それなのに、ペトロを初め使徒たちは、異邦人が神の救いを受けることは頭になかった。
 しかし、イエス様はカナンの女の人が娘を癒して欲しいと願ってきたとき、パンはまず子どもに与ええるべきだ、と突っぱねた。女は子犬でもパンくずは与えられる。イエス様はその女の信仰を褒められ、娘を癒された。神の救いには順序、秩序があることを教えられた。まず、イスラエルの民、それから異邦人へである。弟子たちはそのことが理解できなかった。
 しかし、神はついに苗代の囲いを破り、その苗をあちこちにバラ蒔かれたのである。それがステファノの殉教をきっかけに起こった大迫害である。弟子たちがあちこちに散らされることで実現した。教会は大きく動揺したが、聖霊の守りと支えによって、やがて平和を取り戻した。
09:31こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
 普通なら大迫害があって、ちりぢりバラバラになったら、自然消滅することが多い、パウロの師匠ガマリエルが言ったように、「ほおっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは出来ない。」
 ユダヤ、ガリラヤ、サマリア、イスラエル全土に散らされて行った信者たちは、自然消滅するどころかますます、固く結ばれ、数を増していった。
 ※日本、紀南地方の教会はどうか。牧師不足、高齢化などで、自然消滅の危機にさらされている所も多い。迫害の故ではない。少子化、若者の教会離れ、見せかけの平和、豊かさ、華やかさの故に真理を求める者がすくなくなり、愛が冷えていっている。世の終わりの様相を呈している。

09:32ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。
09:33そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。
09:34ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
09:35リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、
主に立ち帰った。
 ペトロにとってリダはあまり近づきたくない地であったであろう。しかし、散らされた信者がいたので、ペトロはここへも下ってきた。
 リダという町は、地中海に面した港町ヤッファから内陸に20km入った所にある交通の要所の町であった。エルサレム→エマオ→リダ→ヤッファ(東→西)。リダはエルサレムから北西に約60kmのところにあった。昔からペリシテ人の地に近く、異邦人がいるところでもあった。だから、ペトロは異邦人との接触は出来たら避けたかったからである。
 しかし、ここに聖なる者たち、主を信じる者たちが散らされてきて苦労している。彼らのために、勇気を出してやってきた。そこで、8年も中風で苦しんでいたアイネアという男の人に会い、彼に癒される信仰があるのを見て「イエス・キリストが癒して下さる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」と言うと、彼はすぐに起き上がった。このことで多くの人が主に立ち返った。ペトロにしても思わぬ収穫であった。
 ※私たちも行きたくない所、会いたくない人がいる。しかし、そこへも下っていくことで、思わぬ収穫を、神さまが用意して下さるのである。

09:36ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 09:37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。
09:38リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。 09:39ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。
09:40ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
09:41ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。
09:42このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 09:43ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

 ヤッファはリダから西へ約20km、徒歩で4〜5時間。
 ペトロはタビタの優しい心、またその恩を受けた人々の悲しみを思うときに、彼も涙したのではないか。そして、跪いて切なる祈りを神に捧げたのです。そして聖霊にうながされて「ダビデよ、起きなさい。」との言葉が出たのです。これはもちろんペトロの思いや力ではありません。これは神の御旨でした。どんなに良い行いをしたからと言って、皆が生き返らせてもらえるのではありません。この時、ダビデがペトロによって生き返らされたのは、これによって多くの人が信じるためでした。

 決して偶然やたまたまではない。神さまは明確な意図を持って導いておられるのである。リダのアイネア、ヤファのタビタ、そして10章に出てくるカイザリアの異邦人にも救いを、福音を届けようと緻密に計画されたのです。

 神さまは明確な意図を持って導いておられる。
 私たちの人生もまた全て、誰かの救いのためにあるのです。そのために導かれているのです。たった一人のためであるかもしれない。その一人のために祈ろうではないか。