「わたしのもとに来なさい」 マタイによる福音書11章28節

11:28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(イエス・キリスト) 
 これはイエス・キリストの招きの言葉です。
 イエス様は重荷を負って苦労している者を深く心に留めておられるのです。

 心身に疲れを覚え、重荷を負っている人が、教会の看板に書いてあるこの言葉を見て、教会の門を叩くかも知れません。そこでまさか、イエス・キリストが出てきて対応してくるとは思わないでしょう。普通は牧師が出てきて、その人に応対します。確かに、教会はイエス・キリスト本人ではありませんが、その代理をし、取り次ぎをするところだとも言えます。

 わたしたちを疲れ果てさせるものは重荷を負わすものはなんでしょうか。
 例えば自分自身の問題、あるいは家族のこと等々。
 しばしば、人と人の関係に疲れ果てることがあります。何故、みんなが平和を求めているのに、互いに傷つけ合うのか。何故、互いに支え合い、助け合うことは出来ないのか。
 その根本に罪が潜んでいるのです。罪とは神の掟に反することです。

 「青年時代、わたしの兄は寝ている時に腹を大きなドリルでえぐられるような恐ろしい夢を見て、よくうなされていた。罪の重荷に苦しんでいたのです。その罪というのは、賭け事の金ほしさに両親をだまし、色々と口実をつけて金を出させていたのです。そのことで罪の呵責を覚えていたのです。苦労して貯めた親の金をだまし取っていたのです。悪い友だちの影響も大きかったのかもしれない。」
 兄はそのことで深い罪の呵責を覚えた、良心を痛めていた。当時、まだ教会に行っていなかったときです。

 罪とはどうういうことでしょうか。法律に反することは勿論ですが、それだけではありません。兄のように親から金をだまし取ることは法律的には、親がそれを訴えない限り罪とはならない。親は気づいていたかもしれませんが、何も言わずにいたのでしょう。それならなおさら、兄がしたことは人のなす事ではない、罪の最たるものです。

 罪の基準について、モーセの十戒(約3、500年前)でみてみましょう。神がモーセに与えた10の戒めです。(出エジプト記20:1〜〜)
1.主が唯一のであること
2.偶像を作ってはならないこと
3.神の名をみだらに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではならいこと
9.偽証してはいけないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

 1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。これらを犯すことが罪であり、人に罪を犯した者は人への償いをした。

 神の罪は罪の赦し(贖い)のために犠牲の動物をささげた。そうすることによって神と人との和解をしていた。特に神への規定はこれ以外に細かく規定されており、その規定を破るごとに罪の贖いの為に羊や牛を献げた。それは繰り返しなされた。その方法は旧約のレビ記の詳しく記されている。神との関係がいかに大切なものかを記している。(レビ記05:17過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合、それを知らなくても、責めを負い、罰を負う。 05:18彼は、相当額の無傷の雄羊を群れから取り、祭司のところに引いて行き、賠償の献げ物とする。祭司が彼のために、彼が過って犯した過失を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。 05:19これが賠償の献げ物である。彼は主に対して賠償の責めを負っていたからである。 05:20主はモーセに仰せになった。 05:21主を欺き、友人を偽る罪を犯した場合、すなわち預り物、共同出資品、盗品を着服または横領し、 05:22あるいは紛失物を着服しておきながら、その事実を偽り、人たるものがそれをしたら罪となりうることの一つについて偽り誓うなら、 05:23すなわちこのような罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品、横領品、共同出資品、紛失物、 05:24あるいは、その他彼が偽り誓ったものが何であれ、すべて返さねばならない。彼はそれを完全に賠償し、おのおのの場合につき五分の一を追加する。責めを負うときは、一日も早く所有者に支払わねばならない。 05:25それから彼は償いとして、相当額の無傷の雄羊を群れから取って、主にささげ賠償の献げ物とする。 05:26祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。)

  親に嘘を言って金をだまし取った兄は5.8の罪を犯したということになる。それだけでなく1〜4の神への罪がそのベースになっている。本人はそんなことなど全く知らなかった。
 その後、兄は罪の呵責に疲れ果て、その重荷から解放されたくて駅で拾った一枚の教会案内をめあてに教会に行き、そこでイエス・キリストを知り、キリストのみもとに行ったのです。それは、まさにイエス・キリストの招きであった。その時、初めてイエス・キリストの十字架による罪の赦しを示されたのです。
「05:19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。・・・・・・・・キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(コリントの信徒への手紙二)
 彼は自分のような者も神は憐れんで、その罪を赦して下さることに歓喜した。

 罪を犯した者はそれを繰り返し、段々罪の意識が薄れ、益々泥沼にはいっていく結果になります。兄も又、そう言う経過をだどる危険性があった。しかし、彼はイエス・キリストのもとに行ったのです。
 そこで、キリストによる罪の赦しを受けた。罪の重荷を下ろした。それだけでなく、新しい命と新しいビジョンを与えられた。勉強嫌いな兄は落ちこぼれの人の気持ちを知っていた。そこで、一念発起し、教員の資格を取り、7、8年かかって教師に採用され、出来ない生徒を教えた。のちに養護学校の教師となった。彼は自分の罪や弱さを人一倍知っていた。「自分も生徒と同じや」、とよく言った。兄は父が亡くなった後、母を引き取り最後まで大切に世話をした。

 イエス様は今もわたしたちを招いて下さっています。ちゃんと戒めを守っている人に呼びかけているのではない。罪に疲れ果て、重荷を負っている人に呼びかけ、優しく招いておられるのです。
わたしたちは自分の罪故にうめき苦しむ者です。誰よりも何処よりも、イエス様のもとに行き、休みをえようではありませんか。そこに新しい光が見えてきます。