「キリストの日に備えて」 フィリピの信徒への手紙1章3〜11節

 教はアドベントの降誕節第三週目の日曜日です。
 日本では正月に門松を立てて、神様を迎え、神社にお参りして、一年の幸運を願う。
 今年は国体で天皇皇后両陛下が田辺に来られた。あちこちの道路が整備され、綺麗になった。私たちは、イエス・キリストを迎えるにあたり準備は、それは外側の綺麗さではなく、心の中の清さが問われる。

 1.福音にあずかる
01:03わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
01:04あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
01:05それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

 パウロはかつてフィリピの教会の人々に、苦難の中で福音を宣べ伝えた(使徒言行録16章)。そのことを思い起こす度に「感謝」がわき起こり、ああ、神様有り難うございます、と喜びに満ちて祈ったのです。なぜなら、彼らが初めから今に至るまで福音にあずかっているからだ、と言うのです。パウロの感謝の源は「福音にあずかる」ということでした。この福音にあずかることは「キリストの日への準備」に相応しいことにもなる。
   
 『「福音」と言う言葉は新約聖書に何度も出てくる言葉です。「福音エバンゲリオン(エバ+ゲリオン)と言う言葉が使われています・原語の意味は「良い+知らせ」嬉しい知らせ、よいおとずれ、福音:特にメシアがやって来るという吉報、メシアによる罪の赦しが来るという吉報、
メシアによる罪の赦しがすでに成就されて信じる人に与えられるという吉報、キリストの福音。』

 「福音にあずかる」とは
 キリストの十字架による罪の赦しにあずかるということである。こんな罪多き者の罪を赦し、きよめてくれるのはキリスト以外にない、キリストの十字架で流された血は私の罪を赦すため、私の罪の代価であった。キリストはそのためにこの世に来て下さった。
 フィリピの教会の信者は信じたときから苦労して伝えてくれたパウロの宣教を支え、助け、共に福音を伝える重荷を負った。そのことでより深く福音にあずかることができた。
 どうか皆さんも福音を伝える重荷を負って下さい。一枚のハガキを使ってもいいでしょう。色々な支援ができるでしょう。共に福音に預かる者となりましょう。それがキリストの日への準備となるのです。
 01:06あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

 2.わたしは、こう祈ります。
 1:4パウロはフィリピの教会の人々のために祈った。いつも喜びを持って、祈っています。さらに続いて、パウロはこう祈りました。
 01:09わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 01:10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 01:11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 ここにも「キリストの日の準備」について記されている。
 @知る力と見抜く力とを見に付けて→→Aあなたがたの愛がますます豊かになり→→B本当に重要なことを見分けられるように

 @ 知る力と見抜く力とをみにつけて
 コロサイ1:9霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟り」
 
神の御心をしり、神の御心を見抜く力のことである。それは何によって身に着けるのか。それは肉の力、知恵の訓練によるのではなく、神の霊による。霊による(神の力、導きによる)知る力と見抜く力を身に着け、神の御心を十分に悟る。では神の御心は何か。神の御心は、御子イエス様の十字架に現された人間に対する神の愛を知り、見抜いて、その愛に生かされることである。

 Aあなたがたの愛がますます豊かになり
 フィリピの教会はパウロが窮乏していたとき、自分たちの使者としてエバフロディトを送って、実際的に、物質的にパウロを助けた。愛は口先ではない、実際的である。
 テサロニケ一3:12「どうか、主があなたがたを、お互いの愛と全ての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせて下さいますように。」
 イエス様は遺言のように弟子たちに、私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい、と言われた。これが私たちへの神の御心である。
 他者のこと、教会の群れのことを考えること自体が愛の業である。互いに愛し合うことが、キリストの日への準備である。

 B本当に重要なことを見分けられる
 主の祈り 「天にまします我らの父よ。御名をあがめさせ給え。御国をきたらせ給え、御心の天になる如く地にもなさせ給え。」
 本当に重要なことは天の父の御心です。大切なことは父の御心がなされますようにと、委ねていくことです。この祈りがキリストの日への準備である。

 キリストの日に備えて
 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」(ヨハネ15:9)

 →→C清い者、とがめられるところのない者となり、→→Dイエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて→→E神の栄光と誉れとをたたええることができるように。
 これは暗闇とはまさに逆である。キリストを信じ、その血によって清められ、信仰によって神からとがめられることがないようにされる。

 キリストの福音を信じることによって、義の実を豊かに実らせる者とされる。これは自分の努力や力ではなく、ただ神の恵みによる。それによって神の栄光と誉れとをたたえる、ことは当然の帰結である。全ては私が道であり、真理であり、命であると言われるキリストに繋がることなのである。これこそ天への道であり、キリストの日の準備である。