「主の道を備えよ」マルコによる福音書1章1〜8節

 アドベント降誕節、これには二つの意味がある。一つは神の御子の降誕に思いを馳せ、クリスマスまでの期間、失われた一匹の羊、神から離れ罪に苦しむ人を忍耐強く探し求め、是非とも救わんとする神の愛と恵みを深く味わう時である。もう一つは、来たりたもう週末におけるキリストの再臨に心を向け、心を備える時でもある。アドベント待降節はこの二つが二重写しとなって、私たちの現在を照らし、主の道を備えるように導かれる時です。

マルコ
1:1神の子イエス・キリストの福音の初め
マルコによる福音書は他の福音書と違って、キリストの降誕の出来事については一言も触れずに、いきなりキリストの先駆者として遣わされたバプテスマのヨハネの記事で始まっています。それが神の御子イエス・キリストの福音の初めだというのです。

 全ては、神が人々の内に働き、その思いを起こし、実現に至らせる。全ては神の恵み、導きである。私たちが罪を自覚し、それから解き放たれたいと願い、福音に耳を傾け、それを理解し、それを信じるに至るのは神の一方的な恵みの業である。では、私たちは何もしなくても良いのか。何もできないのか。そうではありません。語る者がなければ誰も聞く事はできない。しかし、遣わされなくては語ることはできない。良き知らせを伝える者の足は何と美しいことか。(ローマ10:14 10:14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 10:15遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 10:16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 10:17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。)教会は主の道を備え、福音を伝えるために神からこの世に遣わされた群れです。

01:02預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし
、あなたの道を準備させよう。

 著者マルコは「預言者イザヤの書」と言っていますが、それは3節の言葉であって、1.2節は実は出エジプト記とマラキ書の言葉から引用されているのです。
出エジプト記23章20節「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし、あなたを道で守らせ、私の備えた場所に導かれる。」
 これは神がイスラエルの民をエイプとの奴隷生活から救い出すために、指導者モーセを遣わし、約束の地カナンに導くとの言葉でした。
 この言葉は神の一方的な救いのみ業を表しています。
※神は私たちをキリストの福音へ、神の国へ導くにあたり、私たちの前に使いを遣わし、主の道を備えさせるというのです。

 「あなたの道を準備させよう。」とはマラキ書3:1に記されています。
 このマラキ書はイスラエルの民がバビロン捕囚という大きな試練を受けた時に記された言葉だと言われています。イスラエルの民は苦難の中で自らの不信仰を悔いたのです。そしてもう一度主を仰ぎ、罪の赦しを乞うていくのです。神はその民にエルサレムへの帰還を約束され、主の道を準備されるというのです。、

 そしてイザヤ書の引用です。
1:3荒れ野で呼ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ』
イザヤ書400:3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
40:04谷はすべて身を起こし、山と丘は身と低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
40:05主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 遠い異国の地バビロンから、エルサレムに向かって最初の喜びのおとずれである。新しい希望と情熱を持って語られている。捕囚の民の奇跡的な帰還がこの預言の中心的テーマとなっている。
 これらに共通していることは、神が使いを遣わし、主の道を備えさせるという、神の一方的な恵と解放方です。

そのとおり、
01:04洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
01:05ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
01:06ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
01:07彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 01:08わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 
イザヤが預言した「そのとおり」ユダの荒れ野でヨハネという人物画現れ、叫んだ。「悔い改めよ。天国は近づいた」と(マタイ3:1)
 バプテスマのヨハネは主の道を準備するのに何をしたのか、彼は荒れ野で叫んだ。何を叫んだか。「悔い改めよ。天国は近づいた」と。「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えた。

 「悔い改め」  (トゥルナイゼン牧会学P223)
 罪の赦しは神御自身の、神お一人の行為である。だが赦しが、その力を発揮すべき時に、人間の側で、満たすべき条件とか、前提というものは、成り立たないのであろうか。すなわち、人間が自分の力で、罪の赦しに向かって手をさしのべ、又赦しの言が向かうとき、これを受けると言うことである。しかし、そのようなことになるためには、人間の中に、赦しに先立って、自分の罪の認識と、それから解き放たれたいという願いが、存在すべきでは無かろうか。そしてこのふたつの認識と、それから解き放たれたという願いが、存在すべきでは無かろうか。そしてこのふたつのことは、「悔い改め」の語で示されている、内的な転換を構成するようになるであろうか。そしてこの悔い改めを完了することは、それによってのみ、赦罪にあずかりうる条件となるであろう。

 バプテスマのヨハネが神から遣わされて、委ねられた使命は「悔い改め」を宣べ伝えることであった。彼はそれ以上でもそれ以下でもなかった。ヨハネは人々の罪を厳しく指摘し、それから解き放つ力ある方が来られることを指し示した。神は彼によって人々の中に罪を認識させ、そこから解き放されたいとの願いを起こされた。ヨハネはまさに神から遣わされた「主の道を備える」人であった。

 そこが荒れ野であろうと、どこであろうと、誰であろうと、そこに生ける真実な神の言葉が語られるなら、今も昔も変わることはない。イエス・キリストはすでに来られ、罪の赦しを完全に成し遂げられた。そして、主は再び来ようとしておられる。