「主は復活された」 ルカによる福音書24章1〜9節

 聖書は生も死も神が定めたものとして記している。
 ヨブ記1章21節「私は裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名はほむべきかな。
 この世に生を受けるのも、この世の生を終わるのも神のご意志である。限りある生も死も神が定めたものとして、そこには深い意義と配慮が込められている、だから主はほむべきかな、と言っている。
 さらには、へブル人への手紙9章27節「人は一度死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが定まっている」
 ここには、人間は一度は死ぬが、その死で全てが終わるのではないこと、死にも限界があり、死の先があることを告げている。それは裁きである。

 「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)
 つまり、私たちが犯した罪に対する裁きが死であるというのだ。
 律法に照らしてというのではなく、また人の前ではなく、神の前にと言うこと、神の光に、基準に照らして、ということだ。
 しかし、いずれにしろ、「死と裁き」は神が人間に対して定められたもの、これによって人間は、限りある自分の人生を考え、どこかで神の罰、裁きを意識しながら、人間らしく生きよう、少しでもましな人間になろうとしているのではないだろうか。そこに人間としての尊厳が生まれてくるように思う。
もし、死も、裁きもなければ、人間はどうなるであろうか。ブレーキのきかない車のようになってしまうのではないだろうか。

 ローマ6:23 後半には、驚くべき言葉が続いて記されている。
 「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
 ここには罪や死、裁きと言っても訳の分からない私たちに対して、神の方から一方的に神の御子をこの世に遣わし、罪と死、裁きから救うために、イエス・キリストによる永遠の命を神の賜として、無償でくださるという。

永遠の命
 神はイエス・キリストによる永遠の命を賜物として与えると言う。神の賜物だからお金はいらない。ただである。
 だたより高いものはないと言うが、神が私たちに求めるものは只ひとつ、自らの罪を認め、キリストによる罪の赦しを信じる信仰だけだ。
 そうするなら、イエス・キリストが十字架の死をもって用意して下さった、復活の命、永遠の命を頂くことが出来る。これがキリストの福音。
 イエス・キリストはそのためにこの世に来られ、私たちの罪一切をその身に負い、十字架につき、死んで、葬られ、三日目に蘇られた。

イエス・キリストの復活
 死人の復活、これは人間の頭では考えられないこと。なぜなら、私たちの経験の中に無いことだからだ。復活は考えられないことだが、信じられることである。信じると言うことは未来、将来のことである。
 たとえば、わたしたちは昨日のこと、地震があったとか、なかったとか、を信じない。それはすでに分かっていることである。
 私たちは明日のことについて地震があるに違いない、又はないだろう、と信じる。
 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル人への手紙11:1)
 イエス・キリストの復活を信じると言うことは、将来への確信である、と共にまだ見ていない事実を確認することである。キリストの復活の命を確信し、その命に生かされていることを確認することである。
 使徒パウロはその事実を確認し叫んだ。「生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)


◎ルカによる福音書
24:1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
 夜明け前に暗いときに、墓に向かう女達、この女たちが頼りにしていた方が死んだ。この一つ一つが、人生の暗さに圧倒される人の姿を如実にあらわしている。
24:2、3見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
 だが、イエス・キリストの復活。それは墓の中にイエスの体が見当たらなかった。ここで、私たちが直面するのは神の語りかけである。輝いた衣を着た二人、天使によって、人格的に語りかける神の言葉、この福音の言葉を、私に語りかける言葉として聞くのである。
24:4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

 この天使の言葉は??責の調子を帯びている。死に勝利する方を、なぜ死に負ける人として捜しているのか。
 この神の語りかけは私たちの決定的な誤解、思い違いを明らかにしている。私たちの日常の基準、常識でイエス様を判断している。
27節「人の子は必ず罪人らのてに・・・」「必ず」ここには必然性がある。それはあのキリストの十字架を通して、罪と死に勝利する力があらわされる、という必然性である。
 同じように十字架の前に立つとき、苦難の中にいるとき、この暗さ、苦しみが勝利への道であること、そのプロセス過程であることを認めなくなる。この世の暗さの中で将来に闇だけを見る。
 けれども主の復活のおとずれは「必ず」に私たちの心を向けさせる。すなわち、闇は闇のままでいられない。死は死のままでいられない。必ず光へと、永遠の命へと変えられる。

 主の復活への信仰は私たちの人生や歴史に新しい光を当て、意味深く考えられるものとなる。生も死も、裁きも苦難も・・・。
 この復活の光が、夜明けの暗さを照らす朝の光のように、私たちの暗い生活を明るく照らすのである。