「一羽のすずめさえも」 マタイによる福音書10章29〜31節

@マタイによる福音書10:29〜31
10:29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 10:30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 時々、公園や道でスズメや鳩が死んでいるのに姿に出会うことがある。自然に死んでいるというよりは、車にひかれたり、カラスにおそわれたりして死んでいるケースが多い。車にひかれてペシャンコになっている姿は何とも無惨な姿である。そんな時、この聖書の箇所を思い起こす。これも神様の許しの中で起こっていることなのだろうか?本当にこの一羽も神に覚えられているのだろうか。
 「スズメ」これは最も小さいもの、力の弱いもの、価値が低い、顧みられないものの象徴である。スズメ一羽が死んだところで、誰も気に留めない、無視されるような存在である。ところが、神はその一羽のスズメさえ、お忘れになることはない、といわれるのである。さらに続いて、あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。スズメより遙かに勝っているあなた方をお忘れになることはない、といわれた。小さき者、弱き者に注がれる深い神の愛のまなざしである。

 Aルカによる福音書12:6.7
6..五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。7.それどころか、あなたがたの髪の毛までもいっ本も残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 スズメは食料、マタイでは2羽が一アサリオン(1/16デナリオン:一デナリオン=一日の労賃)、ルカでは、5羽が二アサリオン売られている、と記されている。スズメの値段は一アサリオンで2羽、二アサリオンでは4羽だが、市場でが5羽くれる。つまり一羽はおまけということである。
 神様はそのおまけの一羽さえも忘れることはないというのである。まして、あなた方おや、である。弱い一羽のスズメが大切にされるなら、まして人間はどんなに弱く、何も出来ないものでも顧みられないはずはないのである。
 神様は、イエス・キリストに於いて、私たちをそのように大切な者として見てくださり、どんなに弱く、何も出来なくても、罪に満ちていようとも、決して価値がないと、見捨てることをされない。愛する神の子として変わりない愛を注いで下さるのである。私たちもまた、そのような思いを持って生きることが出来、弱き者への思いを変えられ、互いに支え合うように導いていて下さるのだ。

 しかし、現実はそれとは逆の社会ではないか。スズメは勿論、人間の命も重んぜられているとは言い難い。自然は破壊され、多くの弱い動植物は絶滅している。スズメ一羽、死んでも誰も顧みない。心を動かさない。一人一人の命も軽く扱われている。神の思いとは逆の世の中である。
 ※千葉県船橋市に住む18歳の少女が行方不明になり、成田空港の近くに生き埋めにされた。
 人間は富を追求するあまり、人の命も自分の命も軽く扱ってしまうことになる。弱い者は切り捨てられる。猫や公園の鳩を殺す。浮浪者を襲う。彼らも又、見放され、切り捨てられた富と力の犠牲者なのだろうか。

 日本人の良さと問題点
 東北大震災以降、「日本人」を意識させられるようになった。「おもてなし」という流行語から、また中国から大量の観光客が来るようになって、その言動から逆に日本人が浮き彫りにされてきている。これまで、日本人であるということを意識したり、考えることがなかった。日本人の持っている大切なものに気づかせてくれた。それは礼儀正しさ、相手を尊重する心、忍耐強さ、我慢強さ、謙虚さ、責任感などなど。これは武士道の精神である。
 私たちは日本人はどにょうな教えを受けて育ったのだろうか。戦前と戦後とでは大きく違っている。戦前までの日本人の精神を形成してきた背景には武士道が深く影響している。しかし、戦後は経済成長第一、物質的豊かさ(富と力)を求めて走ってきた。

 {武士道とは}(広辞苑)
 「我が国の武士階級に発達した道徳律。鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒教的思想に裏づけられて大成、封建的支配体制の観念的支柱をなした。忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、めいよ、情愛などを重んじる。」狭義の武士道は、【文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以て徹底責任をとる】とい武士の考え方を示し、広義の武士道は、この考え方を常識とするにほん独自の思想を示す。

 ただ武士道では目上の者や支配者には忠誠を尽くすことはしっかりと教えられたが、差別廃止(男女や身分による差別)小さき者を大切にする精神は養われない。質実剛健、自分を律しようとする厳しさはあるが、そこには、神も、罪からの救いもない。

 神さはま、私たちを大切な者として見て下さり、どんなに弱く、何も出来なくても、罪に満ちていようとも、決して価値がないと、見捨てることをされない。愛する神の子として差別なく等しく愛を注いでいて下さるのである。私たちもまた、そのような思いを持って生きることが出来、互いに支え合うように導いていて下さるのだ。

 天地万物の創造者、全知全能の神が私たちの全てを知っておられる。当然といえば当然だ。陶器の茶碗を作った人はその茶碗の良いところも悪いところも知っている。造り主だから。神は全てのものを造られたのですから、大から小に至るまで全てのものを知っておられる。
 人間は愚かにも、富と力(権力)のために争いを繰り返し、人の命も自分の命も軽んじてきた。それだけでなく、小さき、力のないものの命を奪ってきました(今でも)。これは神さまの最も悲しまれることでした。イエス様はそのような富と権力にとらわれていた者たちのねたみによって、十字架につけられたのとでした。しかし、それはイエス様が自ら進んで彼らの罪を負うて付かれた十字架でもありました。それによって救いの道を作るためでした。

 一羽のスズメさえお忘れにならない神様は私たちの窮状を見て必ず救いの手を伸べて下さるのです。イエス様はそのために命を投げ出されたのです。私たちがなすことは、ただ、イエス・キリストを信じ続ける信仰です。それによって神につながり、神の豊かな命にいかされることです。








6..五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7.それどころか、あなたがたの髪の毛までもいっ本も残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」