「主が支え、証しされる」 使徒言行録14章8〜20節

14:03それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
14:04町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
14:05異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
14:06二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。
14:07そして、そこでも福音を告げ知らせていた。

 苦難の中でパウロ達の語る恵の言葉、福音を神はしるしと不思議な業によって支え、証しされた。(14:3、2:22、4:3、4:30、5:12)
 神がなされたしるしと不思議な業の一つが、8節以下、リストラでパウロを通して行われた生まれつき足の不自由な人の癒やしです。 
 イエス様はこのことについて、ヨハネ9章で、はっきりと答えられた。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

14:08リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。
 使徒言行録3章に出てくるエルサレム神殿の「美しい門」というそばにいた「生まれながらの足の不自由な人」とよく似ている。
 ここには「リストラに」とあるだけで、何故に座っていたのか。ユダヤ人会堂とは言っていない。多くの人が集まってくるところか。町の広場だろうか。異教の神殿の参道だろうか。それとも信仰深い誰か(テモテ)?の家の中(14:13、家の門)だろうか。この男も話を聞きに誰かに運ばれてきていたのだろう。

14:09この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、 14:10「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。
「いやされるのに相応しい信仰」とはどんな信仰なのか。
 1.パウロが話す福音をよく聞いて、喜んで受け入れる。(マルコ4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 )
 2.自分を低くして幼子のような心で聞いている。(マルコ 10:15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 )
 3.「主よ、憐れんで下さい。」「イエスが家に入ると、盲人達がそばに寄ってきたので『わたしに出来ると信じるのか』と言われた。二人は『はい、主よ』と言ったそこで、イエスが二人の目を触り、『あなた方の信じているとおりになるように』と言われると、二人の目が見えるようになった」(マタイ 09:28イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。 09:29そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、)

14:11群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。 14:12そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。 14:13町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。 14:14使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 14:15言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 14:16神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 14:17しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 14:18こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。
ゼウス (Zeus)は、ギリシャ神話の主神たる全知全能の存在。全宇宙や天候を支配し、人類と神々双方の秩序を守護する天空神であり、オリュンポス十二神はじめとする神々の王である。
ヘルメス
 オチュンポスト十二神の一人。神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、能弁、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。
パウロのいやしと異邦人への初めての説教
 自分たちを神のように持ち上げている。あたかも自分が何か特別な力を持っている、偉いものになったかの如く錯覚し高慢になりやすい。
 しかし、現代においてはペトロやパウロがしたような病気のいやしは行われない。何故か?福音を信じ続ける以外にない。

 ここはパウロが初めて異邦人だけに語った説教。今まではユダヤ人会堂でユダヤ人や、ギリシャ人改宗者など、ユダヤ教(旧約聖書)の下地、土台がある人々に語った。ここには全くずぶの素人に伝道説教をした。律法の行いとか、イエス・キリストの十字架による贖い、信仰による救い、つまり福音については何も語っていない。その前段階の話である。
 8-18節までが挿入句で、7節から19節に繋がっている。

 殺されるほどの迫害
14:19ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。 14:20しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
 こんなひどい目にあったのに、翌日にはデルベに向かった。そこでも福音を告げ知らせた。これは人間業ではない。この時の体験をパウロはコリント二12章で語っている。石打の刑で死んだ経験です。「第三の天まで、楽園まで引き上げられた。」「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される。」
 パウロはこのリストラとでデルベで、最高の弟子に出会った。それがテモテであった。 (16:01パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 16:02彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。)

 苦難の中で、主は支え、主は証ししてくださる。弱き我らをも通して御自身を証しして下さる。これを信じて、主の業を見ていきましょう