「聖霊に導かれる者」ローマの信徒への手紙8章12〜17節

 肉に従って生きるか、霊に従って生きるか。
 肉は自然の欲望であり、自分の力である。、肉に従い、肉に頼って生きるなら行き詰まりであり、行き着くところは罪と死である。これはパウロも、そして私たちも苦しんできたことであり、この社会はこの肉の原理に従って生きており、様々な憎しみ、恨み、争いを生み出してきた。
 一方、霊は聖霊であり、神の霊、キリストの霊である。これは御子イエス・キリストを信じる信仰によってあたえられる神の霊であって、神からの賜物である。ペンテコステの時に弟子たちも降った霊であり、異邦人へと福音を伝えた霊である。この霊は信じる者の内に宿り、罪と死から開放し、神の子とする霊である。8:11にこう記している。
08:11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
また、8:9には「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」とある。

 一つの義務
08:12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務(口語:果たすべき責任)がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
 その義務とは、霊に従って生きるという、霊に対する義務である。
 肉は私たちに混乱と争いをもたらすのみで、何一つ良いものをもたらしてくれない。だから、肉に対する義務はない。しかし、霊は内をきよめ、愛と平和、そして永遠の命へと導いてくれる。だから、霊に感謝し、従う義務がある。
 
08:13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
 肉に従って生きるなら死ぬよりほかない。
 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば生きる。霊によって体の仕業を絶つとはどういうことか。修道院のようなところに入って、この世から離れ、禁欲的に信仰生活の修養をする、ことだろうか。
 口語訳では「霊によって体の働きを殺す」と訳されているように、非常に強い言葉が使われている。これは肉体そのものを殺すというのではない。肉的な、本能的な行為、欲求を私たちの生活の指導原理、支配者となすべきではないかと言うことだ。
 キリストを信じた結果、肉から霊へと主人替えが、私たちの中に起こったのだから、神の霊を指導者、支配者として、その命令に従って生活すべきである。肉に従って生活するなら、罪から再び捕らえられて死ぬほかなくなる。しかし、霊に従って生活しているなら、肉なる命は強くされ、私たちの肉を義の武器とすることが出来る。(ローマ 06:11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 06:12従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 06:13また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

 霊に導かれる者は神の子
08:14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
 神の子、神の養子となった。養子にも色々あるが、神は一人一人に相応しく、霊において導いてくださる。

08:15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
 奴隷とは罪の奴隷です。パウロは7:14でそのことを言っている。何と惨めな姿であろうか。しかし、神はイエス・キリストによって真実な道を示してくださった。霊を主人とする道、生き方だ。それによって神は罪を裁く恐ろしい方ではなく、愛と赦しに満ちた神として、お父さんと親しく呼べるようにして下さるのだ。

 「ある子が養子として一つの家庭にもらわれてきた。やがて育ててくれる夫婦をお父さん、お母さんと呼ぶようになった。何年かして、その子に実のお父さんのところに帰りたいか、と尋ねたところ、ここがいい、帰りたくないと答えた。」
 霊に導かれる者は神の子、神の養子だと言われる。その恵みを味わえば味わうほど、本当に良かったと、そこに居続けたいと思う。もう昔に帰りたくないと思う。かつてのキリストを信じる前、肉を主人としていたところはどうだったのか。
 いずれにせよ、キリストを信じる者は、この霊によって神を「父よ」と呼ぶ者とされる。でも何かぎこちない。養子がもらわれた先でお父さんと呼ぶには時間がかかる。心から、神をお父さんと呼べるようになるには、御子をさえ惜しまずあたえてくれた神の命がけの愛が身にしみて分かるようになる時だ。「アッパ」とはアラム語で子ども達が父親に親しく呼びかける時に言った言葉だと言われる。

08:16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
 霊に導かれる者は、たくわん漬けのように神の愛が身にしみ、ああ、私も神の子どもなんだなー、と実感できるようにしてくださる。そう言って人生の終わりを迎えたいものだ。

08:17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
 なんと神の子どもは神の相続人、しかもキリストと共同の相続人だというのです。全く夢のようなことだが、夢ではない。神の国も、神の愛も、義も、聖も、命も相続するのである。しかし、この世においてはキリストを信じ、キリストの後に続くことはキリストの苦しみを味わうことでもあり、並大抵のことではない。脱落する者も出てくる。
 しかし、一人ではなくキリストと共に、また兄弟姉妹と共に苦しむなら、共に栄光をも受けることとなる。神の相続人であるから、神の子としての恵みを、祝福をあふれるほど頂こうではないか。