「主イエスの恵によって」 使徒言行録15章5〜21節

    神に近づくのは行いか信仰か
 【神社にて】闘鶏神社など神社にお参りする人を見ていると、まず鳥居の手前で拝礼する、それから中に入ったところの水場で手や口をきよめる。拝殿の前に行き賽銭をささげる、鈴があるとそれを鳴らし、柏手を打って手を合わせ願い事を祈る。これは神の御前に出るための清めの儀式であり、祈りを聞いてもらう手続きでもある。
 ただ、そんなことで罪けがれが清まるのか?神さまは、「もっと真剣に修行でもして、身を清めてこい。そんなわずかな賽銭で、願い事が聞き入れられると思うのか」と言わないだろうか。
 真面目に考える人は、そんなことでこの身が清くなるはずはないし、願い事も聞かれないだろうな、と思ってしまう。ある人は寒い冬に頭から水をかぶったり、お百度を踏んだりして、真剣に汚れを清め、願いをかける、お願いする。

 【教会にて】教会においてもどうも教会は敷居が高い。自分のような者が神聖な場所に入る資格がない、思う人もおられるでしょう。教会に行くならもっと生活を正して、酒もたばこも賭け事も止めて、聖書を少しでも読んでいこう、と思うかもしれない。そう思うのは正常な考えです。
 人は皆、聖なる神の前に出ようとするとき、自分は相応しくないと思う。そして、少しでも相応しくなろうと、努力する。
 しかし、なかなか罪けがれを取り除くことは簡単なことではない。人を憎み、恨み、ねたみ、自分を守るために嘘をつく。親孝行したいのに、ついつい言い争ってしまう。また、様々な誘惑に負けてしまう。酒、賭け事、性的な誘惑、今度そこと思うが、同じ失敗を繰り返してしまう。こんなことを抱えて教会に来ていいんだろうか。
 ※教会は長年来ている者でも、いや牧師でも、先週は不信仰な生活をした。教会に行って聖なる神の前に出て、礼拝をささげ、祈る資格はないなー、皆と顔を合わせるのが恥ずかしいなー、と思ってしまう。ある意味でこれも正常な思いです。しかし、神様を知れば知るほど、神様は聖なる方であると共に、憐れみに満ちた方でもあることが分かるのです。どんなに罪に満ちた者であっても。罪を悔いて帰ってくる者を、神様は何度でも喜んで迎えて下さる。(放蕩息子、ダビデ王)

 【福音】さらに、神様は私たちの罪を全て御子キリストに負わせられたのです。それがイエス・キリストの十字架です。
 何故、そうされたのか。わたしたちの罪は私たちに責任があります。私たちがその罪の罰を負うのが当然です。しかし、表面的には取り繕っても、心の中の罪けがれはどんなに取り除こうとしても、取り除くことが出来ません。修行し、善行を積んでも、道徳倫理、心理学の本を読んだり、哲発本を読んで、自分を変えようとしても変えることは出来ません。そればかりか、益々、自分の罪深さ、弱さが浮き彫りにされるばかりです。
 ただ、自分の力ではなく、神の力、主イエス・キリストの十字架による救いの業によって、罪から救われるのです。イエス様の十字架と復活によって、私たちを罪と死から解放して、神の子としてくださるのです。そして、そんな時でも、神様と呼びかけることが出来るのです。
 これは誰であれ、いっさい差別はありません。世界中の全ての人の救いのためであります。どの国の人であろうと、老若男女、だれでもこの救いを頂くことが出来るのです。
 ただ、「わたはイエス・キリスを私の救い主と信じます」それだけで十分なのです。何故なら、あなたの救いに必要なことは全てイエス様が成し遂げて下さったからです。
 これが福音です。罪けがれを除くために、救われるために、神の掟を守ることも、修行も、自分を変えることもいらないのです。そのままで、イエス・キリストがなして下さった救いの業を信じるだけでよいのです。キリストを信じることによって、キリストにつながり、神とつながり、罪がきよめられるのです。

 【教会の対立】パウロとバルナバによって小アジアを中心に第一回目の伝道旅行が行われた。一年余り伝道の後、二人は派遣されたシリアのアンティオキア教会に帰ってきて、その成果を報告した。多くの異邦人がキリストの福音を信じ、罪から救われたことを報告した。15:5 ところが、ファリサイ派(厳格なユダヤ教)から信者になった人が数名立って「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守らせるべきだ。」と主張したのです。つまり、ユダヤ人以外の人はキリストの福音を信じるだけでは救われない、そんなことだけで神に受け入れられると思うのは、虫が良すぎると。

 ここで教会では喧喧がくがく激しい議論が起こった。
15:05ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
15:06そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:07議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
15:08人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
15:09また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
15:10それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
15:11わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

 ペトロは当然使徒の中でも中心的な人物でした。彼は今までの神の導きを確信を持って語った。
 今まで異邦人を汚れた民と思っていたが、自分は彼らをも神が清める民として福音を語った。百人隊長のコリネリウス一家の上に聖霊が降り、彼らは神に救われた。神が異邦人を受け入れて下さった。神は彼らの心を信仰によって清められた。ユダヤ人のように割礼を受けなくても、律法を守らなくても、キリストを信じる信仰によって受け入れて下さった。ユダヤ人のように律法を守ることに重荷を感じながら、必死に頑張らなくて良いのだ。

 【主イエスの恵によって】
 神は罪に苦しむ人間を天からただ眺めるだけの方ではない。傷つき嘆く者を深く憐れみ、全ての人に救いの御手をさしのべられるのである。その御手がイエス・キリストである。キリストは私たちの罪の深みにまで降って来てくださり、共に寄り添って歩んで下さいました。そして、私たちの一切の罪をその身に背負い、十字架で身代わりの死を遂げて下さいました。ここに完全に罪の赦し、罪からの救いの道が備えられたのです。それは一方的な神の恵み、主イエスの恵みであります。いつの時代、何処の国民であっても、私たちが救われるのは、ただ主エイスの恵みによるのです。イエスを信じる者は誰でもそれだけで救われるのです。神がイエスの故に受け入れて下さるのです。神と共に生きることが出来るのです。これは何の差別もありません。
 必要なことは全てイエス様がなして下さいました。割礼も、律法を守ることもいりません。必要なことはイエス様を信じる信仰だけです。その時、イエス様につながり、神とつながるのです。そこから、全ての良きものはあなたの中に流れ込んでくるのです。ブドウの木につながる枝のように、つながっている枝は、やがて実を実らせるのです。
15:13二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
15:14神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。 15:15預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
15:16『「その後、わたしは戻って来て、
倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。
15:17-18 それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、
こう言われる。』
15:18
15:19それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
15:20ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
15:21モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

【福音以外のことは自由と愛をもって】








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