「わたしに繋がっていなさい」 ヨハネによる福音書15章1〜5節

 昨年31日大晦日の早朝4時頃、目が覚めたとたん、みぞおちの周辺に激しい痛みが襲ってきた。急性胃腸炎ということで7日間入院となった。
 元旦礼拝の説教は娘婿の田口君にお願いした。彼は私がしようとしていた聖書箇所から、私が語ろうとした思いを前日からの私との会話を汲んで話した、というのは彼の判断でした。率直なところ田口君の話は私の意図を反映していたと言える。
 教会はこれで本当によいのか。その屋台骨である礼拝はどうか。説教のウェートが占める重さ、牧師の責任を痛感している。また、礼拝は教会員が出席して成り立つものである。礼拝は神への讃美と祈り、感謝、キリストの体として互いへの配慮、皆が一致団結して求道者への証の場でもある。
 入院中考えた、礼拝について話す事が、果たして神様の喜ばれることか、神様が導き、養って下さっている教会なのにお前は分を越えている、感情的になっているのではないか、神様はそれを望んでおられるのか。私が突然の病気になって、話せなくなったのは、神様がそれにストップをかけられたのではないだろうか。もう一度考えよ。

 神様の御心は何処にあるのか。ぶどうの木のたとえから、信仰者の、教会のあり方を考え、是非とも、いや出来ますなら良き実をならせたいと願います。
  1節イエス・キリストがブドウの木、そして父なる神が農夫である。
 神様は全ての人に、良き実を実らせレウ条件を完璧に整えられている。
「全て良い木は良い実を結ぶ。・・・良い木が悪い実を結ぶことはない。」(マタイ7:17)

 イエス・キリストがブドウの木、このブドウの木は完全によいブドウの木である。そのブドウの木を世話をし、手入れをする農夫が天の父、ブドウの木もそれを世話する農夫も完璧に良い、それならよい実を実らせないはずはない。
 イエス様は5節で弟子たちに「わたしはブドウの木、あなた方はその枝である」と言われた。これはすでに枝がブドウの木に繋がっている状態である。 
  ブドウの木は木も枝も何処までが幹で、どこからが枝か見分けがつきにくい。イエス様と信仰者との間にも、それと似たような、きわめて微妙な一致と連帯がある。
 イエス様を信じた時点でキリストの体に組み込まれている。幹に繋がれた枝となっている。それなら、信じてよい実が結ぶのを祈り、待つだけでよいのではないだかろうか。はたが(牧師が)繋がりのことをとやかく言って、口を出すのはおかしいのではないだろうか。

  神様のやり方ははどうだろうか
 @律法:何が罪であるか、罪を犯したとき、その贖いはどうするか。神の掟に反することをしたときは罪の赦しを得るために犠牲の動物を捧げ、償いをした。あるいは神への感謝を表すときも、献げ物を献げた。隣人との関係も細かく規定した。それによって神と人を愛するようにさせるためだった。
 旧約聖書には、神様はイスラエルの民を十戒・律法に従って厳格に、厳しくしつけられた。つまり、枠組みをしっかりと教えられた。しかし、彼らは枠だけ、中身がない、心が伴わない、命の通わない信仰にしてしまった。
 イザヤ5章1〜4節
 何故そうなったのか。8〜1節には肉の欲を満たすことを第一にしていた。これが新約時代になってもイエス様によって痛烈に非難されたファリサイ派や律法学者たち、指導者たちの信仰がそうであった。神様、神様と言いながら、神様を軽んじ、神様に背を向けていた。彼らも又、自分の肉の欲を満たした。

 毎週、日曜日の礼拝を守ることはとても大切なことである。それがある時は義務的な、形式的なものになっても、出席することに意義がある。心から喜びと感謝を持って献げることが出来れば最高です。つまり命が脈々と通う礼拝です。そうなる為には何が
必要か。神のやり方は律法と共に、命がけの愛を注ぐ事であった。

 Aそのために神様がされたことは、御子をこの世に遣わし、人々の罪をその身に負わされ、十字架の死を通して罰を受けさせる事であった。自らが手本となられた。この様に生きるのだと。それだけでなく、これを信じる信仰によってイエス様に繋げられ、その命を頂くことで、神と人を愛する生き方へと入れられるのだ、と。つまり、実を実らせることができるということです。

 イエス・キリストの十字架の死と復活
 これを自らの罪の身代わりの死であり、新しく神の聖霊を頂いて生きる、新しい誕生のはじまり、であると信じてバプテスマを受ける者は、つまりブドウの木であるキリスに繋がれるのである。
 このことは律法を厳格に守ることではなく、キリストを信じる信仰による繋がりである。信じるだけでキリストに繋げられる。その繋がりをしっかりと維持し、幹から水分・養分を十分に吸い取って、良い実を実らせるために必要なことは何か。信仰である。

 「つながる」と言う言葉が頻繁に出てくる。
@とどまる、滞在する、住み着く、泊まる、居住する、居着く
A続く、存続する、生存する、残る

 9節「わたしの愛に留まりなさい」
 イエス様は9節に「わたしの愛に留まりなさい(繋がりなさい滞在する、住み着く、泊まる、居住する、居着く)。」と言われている。「イエス様の愛」とは、神の御子が、この私のためにも十字架について命を捨てられた、ということです。それは、私だけでない、この人のためにも、あの人のためにも十字架にかかられた、ということです。週に一度の日曜日の礼拝は、そのことを思い起こさせる大切なときではないでしょうか。

15:01「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:02わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:03わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:04わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:05わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。