「十字架に向かって」 ヨハネによる福音書12章20〜27節

 今年のイースターは3月27日です。今週と来週は十字架に向かうイエス様の姿に思いを馳せてみたいと思います。
 今日、読んでもらったのはヨハネによる福音書12章20節からでしたが、その前の12節のところにはイエス様が、最期の過ぎ越の祭りをお祝いするために、エルサレムの神殿に上ってきたところが記されています。群衆はホサナ、ホサナと言って、イエス様のエルサレム入場を大変歓迎し、喜びたたえました。
 さて、この過ぎ越の祭りにギリシャ人が何人か礼拝するために来ており、イエス様に会いたいと弟子たちに願い出ていたのです。このギリシャ人はユダヤ教に改宗していた人たちでした。
 これを聞いたイエス様は12:23「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのです。これは今まで、弟子たちに繰り返し言ってきた「苦しみ」を受ける時が来たことを宣言した言葉でありました。栄光とは十字架の死です。

 さらにイエス様は「一粒の麦」のたとえ話しをされました。
12:24はっきり言っておく。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、もし地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ。」
 一粒の麦を畑にまくなら、やがて芽を出し、成長し、多くの実をならします。その時、元々の麦粒は殻だけににり、中身は新しい麦穂のために栄養分として吸い尽くされ、与え尽くすことになる。
 この譬えによって、御自身が十字架によって死ぬことよって、多くの人に自分の命を与え、その命に生かし、救うことを言われたのである。

 イエス様は2000年前にイスラエル人としてイスラエルの地に来て下さり、多くの人の病気を癒やし、奇跡を行い、神の国をのべ伝えられた。それだけなら全世界からするとほんの一握りの限られた人だけが助けられたということになる。しかし、イエス様は最終的に十字架につき、全人類の罪を引き受け、御自分の命を与え尽くされました。そして死からよみがえられた。それによって、信じる者は誰でも、罪の赦しとイエス様の命、永遠の祈りを頂くことが出来るようにされたのです。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、全ての異邦人も等しく救われるのです。
 それは今も、これから先も、再びキリストが来られる日まで変わることはありません。自分のためではなく、他の人のために、全人類の救いのために自分の命を献げられたのです。それによって神は全ての人間を愛しておられることを証しされたのです

「03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 とあるとおりです。

 12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 @自分の命を愛する、とは人間の自然な感情である。命は自分の一番大切にしているものである。しかし、自分の命(肉の命)だからと言って、自分だけのために後生大事にし、他のことを顧みないならば、それを失う。
 Aまた、自分の命をを憎む、とはどういうことなんだろう?
 憎む=軽視する、より少なく愛す、より少なく執着する。という意味がある。
 つまり、自分の命を憎むとは、自分の命(肉の命)に執着しすぎない、それを絶対的なものと見ないと言うことである。
 神のために、他者のために、その命に執着しない者は真の命、永遠の命に至る。
 ※榎本保郎牧師はある時、医師から無理をすると寿命が縮まる、しかし、ゆっくりと静養すると寿命が延びるかもしれない、と言われた。しかし、榎本牧師は寿命は短くなっても、朝の祈りと聖書講義を再開しようと決心した。榎本牧師は、自分の命は大切であったが、神の国とその義を第一にし、他者の救いのために、神の働きを優先させたのであった。

12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 私たちには自分の命を他者の人のために献げても、人を救うことは出来ません。人を救うことの出来る方はイエス様だけです。私たちはただ、このキリストの命を頂いて、その後に従うことなら出来ます。言い換えれば、キリストを信じていく、キリストに導かれていく信仰の道である。ブドウの木に枝が繋がっていくように、繋がっていれば時が来れば必ず実を実らすことが出来る。繋がるということキリストの愛に繋がるということです。つまり、主イエス様は私のために命を捨てて、十字架について、罪の赦しと永遠のいのちを約束して下さったことを信じ続けることです。それがイエス様に仕え、従うことです。

12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
 イエス様御自身、心が騒ぐ、と言われた。このことは他の福音書には「ゲッセマネの園での祈り」で現されている。(マタイによる福音書 26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 26:37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 26:38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 26:39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」)

 「私は心騒ぐ」「悲しみもだえ始められた」「わたしは死ぬばかりに悲しい」 御子エイス様と父とは一つであった。十字架にかかると言うことは、罪人として呪われ、神から捨てられると言うことです。しれは全き信頼をおいていた者にとっては耐え難いことであった。まさに生木が引き裂かれるような苦しみである。しかし、その苦しみが最終的には、父に信頼し、委ねることによって昇華していくのである。

 十字架に向かう道は茨の道である。それはイエス様にしか歩めない道である。私たちはただ私たちを救うために命を献げて下さったイエス様を信じて、感謝と讃美を捧げることによって、イエス様のおられるところにおらせて頂けるのです。それはまた、自分の命に執着しすぎず、一粒の麦として神と人のために少しでも役立たせて頂ける道へと導かれるのです。


ヨハネによる福音書12章20〜27節
12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 12:21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 12:22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 12:27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。