「永遠から永遠まで共に」 ルカによる福音書20章27〜40節
 
 今日の箇所の主題は、死んだ後はどうなるのか。
 死んだ後、復活など無いといっていたサドカイ派の人々が、冷笑気味にイエス様に質問した。彼らは神殿に仕える祭司でありながら、この世の生活が第一、それが恵まれていれば、神に祝福されていると考えていた。死後のことはどうでもよかった。
 ※「宮きよめ」(マルコ11:15〜)イエス様は神殿の境内で、両替人や鳩を売る人々を追い出した。「私の家は全ての人々の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」
 この時、イエス様の矛先は神殿の管理責任者である祭司たち、つまりサドカイ派の人々に向けられていた。
 サドカイ派の人々は千年前のダビデ王時代の大祭司ツアドク(サムエル記下9:17)に由来します。彼らはレビ族の中でも大祭司の子孫として代々祭司として神殿に仕えており、自分達こそ神への信仰の主流派であることを自負していた。しかし、サドカイ派の人々は表面的には聖書的・正統的信仰を装いながら、実質的には永遠的なものを無視し、否定していた。従って彼らは復活はないと主張していたのである。

 ここで、彼らは何とかイエスをやり込めてやろうと、申命記25:5のモーセの律法を引用し、皮肉っぽく復活について質問した。
20:27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに尋ねた。
20:28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20.:30次男、
20:31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32最期にその女も死にました。
20:33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。

 彼らが引用した申命記25:5にはこう記している
25:05兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
25:06彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。


 これは「レビレート婚法」と呼ばれていた。家名を残し、子孫を絶やさぬようにするためであった。
 
 パウロ03:05わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 03:06熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 03:07しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 03:08そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピ3:5〜)..

 パウロはキリストを信じることで、今まで価値を置いてきたもの、血筋、学歴、業績といったこの世のものの価値が色あせてしまうほどの天国の栄光の一反を垣間見た。
 夫婦、家族、子孫は弱い私たちが互いに慰め、支え合うために神がこの世において、定められた秩序である。その中で信仰の継承、神をあがめ、互いに愛し合うことができれば幸いは大きい。しかし、天まで持っていいくものではない。この世限りのもの。天においてはそのような慰め、支えはいらなくなうほど、それらとは比べものにならないくらいの
 では、この世の関係は栄光で輝かせて下さる。神の慰め、支え、喜びで充ち満ちている。天においては天使に等しい者になる、と言って下さっている。
 では、この世の関係はどうなるのか。死んで、天に行ったら、誰が誰か分からなくなるのか。関係なくなくなるのか。そんなことはないだろうか、それを遙かに超えた恵みで包んでくれることだけは確かである。

 イエス様は更にこう言われた。
20:37死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
 モーセの柴の箇所とは出エジプト記3章に出ている所のことである。
 ここは神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の苦役から救い出すためにモーセを召し出された箇所です。その神の召命に尻込みするモーセに対して、神は「わたしはあるというもの」「わたしはあって
あるもの」である、永遠から永遠まで存在するものである、私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である、あなたとも永遠に共にいるから恐れるな、と言われた。

 イエス様は、神を信じて従ったアブラハム、イサク、ヤコブを死によっても決して滅ぼすことはしない。なぜなら、彼らは信仰によって神に繋がっていたからである。それはちょうど、ブドウの木に枝が繋がっているようなものである。彼らは信仰によって神の命、永遠の命を生きていたのである。それが肉体の死によって、神は彼らを切り捨て、見捨てられることはない。死を超えて彼らは永遠に神とともにその栄光の中で生きているのである。
 モーセに対しても、神はあなたと永遠に共にいると約束なさったのです。

 神がキリストの故に受け入れ、聖霊を注ぎ、神の子として下さった者を死によって、ハイあなたとはこれで終わり、等と言われるでしょうか。キリストにより神の子として下さったわたしたちは、たとえ死んでも生きるのです。永遠に神と共にその祝福にあずかるのです。
 「主はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、そして私たち一人一人の神である。」

 死んだ後はどうなるのか。死から復活したキリストを信じ、信仰に生きる者は死んでも生きる。神と共に永遠に祝福に包まれて生きることになる。それは結婚の祝福を遙かに超えた祝福で、もはや嫁ぐこともめとることもいらない。病気に苦しみことも、罪にさいなまれることもない。光り輝く天使に等しい者であり、永遠に神の子である。








20:27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに尋ねた。
20:28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20.:30次男、
20:31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32最期にその女も死にました。
20:33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は、神によって生きているからである。」
20:39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」という者もいた。
20:40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。