不信の時代と信仰」 コリントの信徒への手紙一 13章13節

「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一 13章13節)

 昔から、人を見れば泥棒と思え、ということわざと、渡る世間に鬼はなし、ということわざがある。他人を軽々しく信用するな、それと同時に、世の中には無情な人ばかりではなく、手を差し伸べてくれる人もいる。今の社会はどちらに傾いているのだろうか。私の目には余りにも自己中心的な犯罪が目につき、社会の不信感、人間不信、神不信は増しているように思える。それは何故だろうか。

 A.人間不信(人が信じられない)の要因
 @赤ちゃんの時、しっかりと母親のおっぱいを飲んで、スキンシップをし、安心感を身に着けることが十分できなかったこと。
 A信頼していた人に裏切られること。家族、友人、先生・・・
 ※信頼を得るためには沢山の積み重ねが必要ですが、信頼をなくすには一度の裏切りで十分。
 B人間関係が上手くできないことが、人間不信の原因。
 C言っていることとやっていることが違う人を見るとき。※パナマ文書

 私たちの周りには人間不信、自信喪失になる原因は無数にある。
 ※学歴至上主義、お金至上主義に生きている。誰が人間不信になってもおかしくない。皆さんはどうでしょうか。
 豊かな生活、経済最優先、そうしむけた政府の方針。私たちはそれに乗せられ、躍らされ、豊かさは手に入れたかもしれないが、知らず知らずのうちに人間不信に陥ってきた。その代償は大きい。

 それと深く繋がっているのが、神への不信、不信仰である。
 B.神が信じられない(不信)
 この世は信じられないことが多すぎる。もし、神がいるなら何故、こんなに不公平、不平等な世の中にしたのか。何故、こんな世の中を、人間を造ったのか。神など信じられない。誰も何も信じられない。虚無的な、絶望的な気持ちになってしまう。
 しかしよく考えてみると、この様な世の中を造ったのは神ではなく欲深い人間自身である。自分で自分の首を絞めているのである。
 それは神が望んでいる世の中ではなかった。私たちは真実を知らないうちは自らの罪に気付かない。自分は正しいと思い、他人に責任を転嫁しやすい。
 しかし、裏を返せば、自分の中をよく見るならば、神を信じたい、人と人の温かい関係を回復したい、と願っている。
 そのためには一家に揺るがない父親が必要なように、天に置いては絶対的な正しさで善悪を裁き、しかも慈悲深い神の存在(天の父)が私たちにとって是非とも必要である。神は、初めに人間を神を求めるように造られたのである。又、神は御自身を私たちに啓示されてきたのである。その最大のことが、イエス・キリストである。このイエス・キリストにおいて、神は御自身を完全に現された。イエス様は「わたしを見た者は神をみたのである。」と言われた。イエス・キリストを信じた者は神を信じたのである。
 では、イエス・キリストはどのような方として啓示されたのでしょうか。それは福音書に十分に記されている。
1.絶対的に正しい方。
2.病める者、貧しき者、罪多き者に対して、愛(慈愛)にあふれた方。
3.全知全能な方。
4.命さえ惜しまず、救って下さる方。十字架による死と復活

 C.神への信仰(信頼)回復
 イエス・キリストにおいて神はこの世に現れた(言葉は肉となって私たちの中に宿った)。この神が私たち一人一人と深く関わって下さる。しかも命がけで。しれがイエス・キリストの十字架です。そこにおいて神への信仰、人間への信頼が回復されるのである。神の愛が一点に凝縮されて現れてるのが、イエス・キリストの十字架である。

 キリストの十字架は、もしも罪ある人間が信仰を持ってそこに立つ場合には、神の愛が罪ある人間と出会う点なのです。キリストにおける神の行為は、神が人間に新しい「身分」をあたえるということであり、それゆえ、人間に新しい環境、状態を作り出す、新しい創造なのです。
 「誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者です。見よ、古い者は過ぎ去り、全てが新しくなった。」(コリント二5;:17)
 
 
キリストの十字架について、神はこう言われる。
 
『あなたがたがそうならねばならない状態がある。わが子イエスはあなた方の身代わりになって、このようなな状態に身をさらしたのだ。彼の悲劇はあなた方の悲劇なのだ。あなたがたは絞首台にかけられなければならない反逆人だ。
 しかし見よ、私はあなた方の状態にもかかわらず、あなた方を愛するが故に、あなた方の身代わりとなってあなた方のために苦しむのである。あなた方に対するわたしの愛は、かくも大いなるものであるが故に、わたしはそこ、十字架の上において、愛をもってあなた方と出会うのである。
 わたしはそれ以外のいところであなた方と出会うことは出きない。あなたがたは十字架に架かったものと、自分自身を同一視することによって、わたしとそこで出会わなければならない。神であるわたしと、人間であるあなた方とが、彼において出会うことができるのは、まさに彼、イエス・キリストとあなたがたを同一視することによってである。そこにおいてわたしは彼に対してそうするように、あなた方に対しても、「わが愛する子」と呼びかけるのである。』(E・ブルンナー)

 
イエス・キリストの十字架は神の愛の極地、神と出会う場所。このわたしのために神は御子キリストの命を惜しまず与え、罪の赦しと新しい創造、神の子として命に生きるようにして下さるのである。神は約束されたことを必ず成し遂げられる。神は真実な方、神を信じる者を決して裏切られない。
 この愛と真実に固く立って、この不信仰の時代にあっても、互いに理解し、許し合い、信頼を築いていこうではありませんか