「必要なことはただ一つ」 ルカによる福音書10章38〜42節

 この話しはルカに福音書だけに出てくる記事です。著者ルカは福音書を書くにあたり冒頭(1章)のところに多くの人々が書いているが、自分も詳しく調べているので順序正しく書いた、とあります。そのルカだけが何故この記事を選び、このところに入れたのか、そういうことも考えながら見ていきましょう。

10:38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
 一行とはイエス様を先頭におもに12弟子たち(ヨハネ06:66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。) であったと考えられます。どこに向かって歩いていたのでしょうか。この時、ハッキリと目指すところ、目標を定めておられたのです。
 ルカ9:51に「イエスは点に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」イエス様は苦難を受けるために、つまり十字架と復活の場所であるエルサレムに向かっていたのです。
 その途中で、イエス様は、「ある村」に入られた。これも通りがかりに漠然と入られたのではなかった。目的があった。「ある村」とあるだけで名前は記されていません。しかし、この村にはマルタとマリアの姉妹がいた。
 マルタとマリアと言えば、ヨハネによる福音書11,12章に詳しく出てきます。ここにはこの村は「ベタニア村」であると記しています。この村はエルサレムの東2.7q(歩いて一時間ほど)のところにあった。

 するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
 マルタはマリアの姉であった。彼女はイエス様のことを以前から知っていたのであろうか。一説には、イエス様はエルサレムに上られるたびにベタニアのマルタとマリアの家に立ち寄られたのではないか、と言っている。
 イエス様にとってこの家は心安らぐ家であった。だから、いよいよ十字架を間近に控えたイエス様は一時安息を目的としてか、またこの世でのお別れを告げるために立ち寄られたのではないだろうか。
 しかし、マルタはいつもとは違うイエス様に気付かず「いつものように」イエス様を迎えたのであろう。

10:39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアが主の足もとに座って、その話しに聞き入っていた。
 さて、妹のマリアはどうしていたのであろうか。いつものように家にいて、イエス様に足を洗う水を出し、接吻をし、香油を塗り、心から歓待したであろう。そして、初めはいつものように妹マルタと共に食事の用意をしたであろう。しかし、イエス様が話し始められたのを見て、マリアは料理より、イエス様の話を聞くことを選んだ。これはマリアの独断や勝手な行動ではなく、まず、姉のマルタにも了解を求めたのではないだろうか。それは「マリアはよい方を選んだ」とイエス様が言ったことから推察される。今は何を選ぶ時か。

10:40マルタはいろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 このマルタの言葉に何を感じるか。明らかに妹とイエス様に対して、特にイエス様に対して不満を抱き、厳しい口調になっている。
 ※伝道集会で
 最近は講師の先生はホテルに泊まってもらっていますが、以前は牧師館に泊まってもらうことが多かった。牧師館に泊まってもらう時は、何ヶ月も前から、部屋を掃除し、蒲団を干し、食事は何にするか、色々と準備します。特に妻は料理のことであれこれと考えます。その準備で疲れ込んでしまい、イライラすることがあった。

 マルタはいつものように食事の世話のために忙しく働いていた。彼女がそれを選んだとも言えますが、あれもこれもとしていたらとても一人では大変になったのです。これだけ忙しくしているのにマリアもイエス様も気付いてくれない。ついに腹を立てて、その思いをイエス様に爆発させた。

10:41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42しかし、必要ことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 必要なことは何か。マリアはそれを選んだ、と言っている。マリアがしていたことは、主イエス様の足下でその話しを聞き入っていたことです。イエス様の足下で話を聞くことが唯一の必要なことだ。何故そう言われるのかピンと来ない。
 この時の状況を思い起こして下さい。いつもの状況とは違った。この時イエス様はエルサレムを目指していた。そこで十字架が待ったいた。これは天下分け目の戦いであった。

 愛する者との時間が限られている時、できるだけ長くそば近くにいたいと思う。マリアはその思いで、イエス様のそばにいた。ヨハネによる福音書には、マリアはそれだけでなく、自分の一番大切にしていた300デナリもする香油を惜しげもなくイエス様に注いだ。イエス様の葬りの準備であった。

 私たちの命は限られている。人生は長いようであって長くない。短い。
 「朽ちる食べ物のためではなく、何時までもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ6:27

 マルタとマリアの話しは、ルカ10:25〜37「良きサマリア人」の結論である。だから、ルカはここに入れたのである。
 必要なことはただ一つだけ!「主のそば近くでその御言葉を聞くこと(食べること)」「イエス様に繋がる」とも言える。ブドウの木と枝にもたとえられる。それは永遠の命に至ることでもある。そのためには具体的にどうすることなのか。その具体例を4つ挙げますので参考にして頂きたい。
 @二人三人、私の名によって集まるところに私も共にいる(マタイ18:20)。
 礼拝に集い、主イエス様の十字架と復活を現す「主の晩餐」に与ること。
 A一人静まって天の父に祈る!
 Bこのいと小さい者にしたのはわたしにしたのである。(マタイ25:40)。
 主イエス様は貧しい人、弱い人、苦しんでいる人と共におられる。
 C主の御言葉を昼も夜も口ずさむこと(詩編1編)。

@マタイ18:20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
Bマタイ25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにし
てくれたことなのである。』
C詩編01:01いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず
01:02主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。01:04神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。