「苦悩する者の叫び」 マタイによる福音書 27章45.46節

27:45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


 イエス様は十字架の上でいくつかの言葉を発せられました。 今日はその中の一つ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を、取り上げて、何故そのように叫ばれたのか、イエス様の真意を考えてみたいと思います。

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
 これが実際にイエス様の口から出た言葉です。録音機があったわけではありませんから、発音はわかりません。しかし、聴いた人々の耳には鮮やかに残っていたことでしょう。訳せば、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
 ではこの言葉を叫ばれたイエス様の真意はどこにあったのでしょうか。絶体絶命の時に、最も助けが必要な時に、信頼している者から見捨てられた悲痛な叫び、怨みを含んだ言葉にさえ受け取れます。
 しかし、それまでのイエス様と父なる神との関係を考えるならば、不似合いです。

 父と一つになって、父に何でも話し、父の力を受けて十字架に向かって行かれたのです。確かに近づくに従って、その苦しみは想像を絶するものがあったでしょう。
 しかし、神が御子を見捨てることはあり得ない。それは誰よりもイエス様が良く知っておられたことです。

 この時の父の真意は、御子イエス一人に人間の全ての罪を負わせ、彼を罪人とし、我らが受けるべき罰、裁きを受けさせた。この時まさに、御子は父に見捨てられたのです。父は御子を見捨てることによって、私たちを見捨てられない者としたのです。
マタイ08:17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った。」イザヤ書53:04彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。

 
この時、「昼の12時から3時まで天が暗くなった。」
 天が暗くなった、光が失われた、これは神が顔を隠し、そっぽを向いたこと
をあらわしている。つまり、見捨てた、ということです。また、天が暗くなったのは神が愛する御子の苦しみを見るに忍びなかったということでもあったのです。

 イエス様はその父の真意を知らされ、よく知っておられたはずなのに、「何故」と言われたのでしょうか。
 古来、多くの信仰者(ユダヤ人)が厳しい試練、迫害の中にあるときに神に必死にすがり叫び救いを求めてきた。
 彼等は、すぐには聞かれなかった・何世代も苦難の中におかれた。それでも彼等が神を信じ命求めてきた根拠はどこにあったのだろうか。それは神の御言葉(律法)であった。今は惨めな状態であるが、聖書によって過去の歴史を振り返ると、苦難の中で祈り求めた先祖を、神は見捨てるようなことはされなかった。苦しみの後、必ず救い出して下さった。彼等も又、先祖達が祈ってきた祈りに合わせて繰り返し、祈り続けたのです。
   【詩編22編】
22:01【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:02わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

22:04だがあなたは、聖所にいまし
イスラエルの賛美を受ける方。
22:05わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
22:06助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。


 冒頭の2節の言葉がイエス様が叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と々です
2.3節の後、4節を見ると「だが」とあります。今の状況はどうにもならない悲惨な状況にあるけれども、「だが、あなたは、聖所にいまし」と自分自身の状況から目を離して、天を仰いでいます。そして、5節ではさらに「私達の先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われてきた」と過去の先祖になされた救いの御業に目を向けています。つまり、過去の信仰の先輩達がより頼んで救われたことに目を向けています。

22:07わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:08わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
22:09「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」

 イエス様の状況とあまりにもよく似ているではありませんか。

 イエス様もまた究極の苦難の中で、この祈りを御自身の祈りとして大声で叫ばれたのです。
 私達が痛みの中で、苦難の中で、迫害の中で、死に直面した中で「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられるのですか。何故、応えてくれないのですか。」と叫ぶとき、主イエス様はそこに共にいて私達の叫びに重ねてさけんでくださったのです。
 ここに、イエス様が苦しみの中から「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた真意があったのです。そこに苦難の中にいる者の苦しみを担って苦しまれるイエス様の姿があったのです。

 イエス様は父に見捨てられた。私達が見捨てられないために。
 何故、イエス様はエリ、エリ、レマ、サバクタニと祈られたのか。
 イエス様は私たちの立場に立って、私達の側に立って祈って下さったからだ。私達の叫びを、私達の祈りを御自分のものとされたからだ。 だから、私達も信仰の先輩達の祈りに合わせて祈り続けようではないか。そこにイエス様は共にいて下さるのです。