「苦難の向こうに」イザヤ書53章4〜8節

53:04彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:05彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/
わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:06わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:07苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:08捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

 今日の箇所は神が送って下さる救世主の姿を明らかに記しています。ヘブライ語でメシア、英語でキリストです。神がこの世に遣わされる救世主メシアとは人々の病や罪を負い、身代わりとなって、苦難を受け、死んでいくというものです。それを見る人々は、彼が、神が遣わされたメシアだとは、誰も思わない。彼らが持っていた救世主メシア像とは、あまりに違っているからです。
 この預言から600年後に現実のものとなりました。つまり、この神からの救世主メシアはナザレのイエスとしてこの世に来たのです。

 [彼]とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちの病、痛み、背きの罪咎のために神に裁かれ、神の罰を受けた。それによって私たちに平和が与えられ、癒やしが臨んだ。
 [私たち]とは直接には神に選ばれた民、イスラエルの人達のことですが、私やあなたを含め、時代を超えた全人類のことです。
 神の救世主メシアは私たちの罪咎を全て負って、おsの罰を受けて下さった。それにyほって「私たちに」平和と癒やしが与えられた。
 そのことを誰も考えもしなかった。メシア、キリストがそのような惨めな姿で死んでいくなと考えられなかった。
 イエス様が十字架についたとき、指導者や群衆、盗賊までもが、お前が神の子キリストなら、十字架から降りてきて自分を救えと罵った。
 イエス様はそうすることも出来たでしょうが、そうされなかった。ただ黙々と十字架刑を甘んじて受けた。ついに息を引き取り、アリマタヤのヨセフとニコデモという隠れた弟子たちによって墓に葬られた。しかし、かねて言われたいたとおり、三日目によみがえり、弟子たちに現れた。死を打ち破り復活されたのです。そして、彼を信じる者はだれでも神の子となる資格を与えられるのである。

 メシアはこの様な苦難を受けたが、その向こうに人々の平和と癒し、神の栄光が、「全人類の救い」あったのです。

◎キリストの苦難は「私の罪」の救いのため
 イエス・キリストの十字架、苦難が私たちのためであったなどと誰が思っただろうか。6節には私たちの姿を羊にたとえて記しています。
06わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 私たちは何処に向かって行っているのでしょうか。間違った道に向かっていませんか。自動車のナビのようにルート案内が出ません。
 ●間違った道:魂の飢えと不安、死の恐怖、互いに愛し合うことの欠如(愛の欠如)。
 ○正しい道はこの反対。

 ◎私たちの苦難の意義 (災害、病気、死など)
 私たちは順調なときは考えない。健康なときは健康が当たり前と思い、体のことは考えない。しかし、ひとたび癌などの病気になったり、あるいは地震や津波や思わぬ災害で、苦難の中に投げ込まれるとき、健康なときのこと、順調にいっていたときの当たり前の生活が、当たり前ではなかったことに気付く。苦難を受けて初めて何が大切なことか、考えるようになる。苦難の中にある人の事を思いやる心を持つようになる。神戸の地震を経験した人がいち早く東北の人を助けに行った。人間の力を超えた神を求めるようになる。

※@九州の災害・・・人ごとか?
 九州は気の毒にとは思うが、私たちのために災害を受けてくれたなどとは思わない。しかし、実際、九州は防波堤のような役割を果たし、その苦難を一手に引き受けてくれている。そのお陰で私たちは助かっている。
 東北の地震についてもそうである。誰もそのようには考えない。彼ら自身の罪のせいだというのである。イエス様に対しても、人々は同じことを言った。しかし、
 彼らの苦難の向こうに神の栄光が、人々の救いが生まれる。

※A津久井「やまゆり園」の事件 20167.26
 「意思疎通ができない重度障害者は不幸をばらまく存在で安楽死させるべきだ」
 これは松浦被告だけの問題ではない。社会や国全体の問題でもある。私たちの底深くに巣くう罪の問題でもある。
 それを打開するのはキリストに現された神の愛しかない。「キリストはこの小さき弱き者、独りのために十字架で命を捨てて下さった。」
 19人の尊い犠牲(苦難)は、私たちに罪を指摘してくれている。
 私たちは私たちの底に巣くう罪をキリストの十字架に現された神の愛で清められねばならない。
キリストの苦難の向こうに罪の赦し、全人類の救いがある。私たちの苦難(病気、災害、死)の向こうに何があるのだろうか。神の栄光がある。きっと誰かの救いがある。

※B私の癌・・・癌という苦難の向こうに
 私は昨年癌を告げられて以来、手術をし退院するまで、これはど死について身近に感じたことはなかった。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」(ヨハネ11:4)
入院中色々考えさせられた。神さまがおられるなら、何故、癌や難病などといった病気はあるのだろうか、何故、死があるのだろうか、何故、災害はあるのか、何故、台風や地震はあるのだろうか、何故、サタンはいるのだろうか、神さまが全てを創造されたのならそんなものはない方が良かったのに、何故なんだろう?
 難しい問題です。
 逆からも考えてみた。もし、癌とか死とか、災害などが全くなかったならば、どうだろうか。もし、私が健康で、何の病気もしなかったなら、どうであろうか。自分を誇り、病気の人の事など考えない、考えられない人間であり続けたであろうか・・・?。

 結論
 人間には分からないことが多い、人間の知るところは限られている。しかし、苦難の向こうに、人知を超えた神の知恵、愛の配慮が込められている、そいうことはあきらかです。「神は神を愛する者と共に働いて万事を益として下さるに違いない、と言うことを知っています。」(ローマ8:28)とパウロが言っていることは真理です。